2008年03月12日
香りの伝道師、「香水の16区」田中貴子(15)(上)
先日、「パフューム~ある人殺しの物語~」(独、仏、スペイン/2006年)という映画を見ました。「18世紀のパリ、悪臭のたちこめる魚市場で産み落とされたジャン=バティスト・グルヌイユ(ベン・ウィショー)。驚異的な嗅覚を持つがゆえに、奇怪な青年として周囲に疎まれている彼は、ある晩、芳しい香りの少女に夢中になり、誤って殺してしまう。その後、彼は少女の香りを求めて調香師になり、香水作りに没頭するが……」(シネマトゥデイ)というストーリーです。

1万個のバラの花から抽出されるエキス(精油)は、1オンス。1オンスは16分の1ポンドで、約28.35グラム。実にわずかな量です。そして、このエキスの取り出し方に「蒸留法」と「冷浸法」があることを知りました。本作では主人公が、永久に香りを保存する方法としてこの冷浸法を学ぶ事によって起こるサスペンスが伏線となっています。
「香水は、三つの和音からなる」とジャンの師ジュゼッペ・バルディーニ(ダスティン・ホフマン)が語ります。一つは「頭(ヘッド)」で香水の第一印象、次に「心(ハート)」でその香水の主題、最後に「土台(ベース)」で仄かに漂う残り香。この三つにそれぞれ四つの香料の音符がハーモニーを奏でる。こんな話を聞くと、普段香りに無粋な私でさえ首元に一滴忍ばせたくなる、そんな誘惑に駆られます。
この映画の主人公ジャンが、冷浸法の技術習得を求めてパリを旅立ったのがグラース(Grasse)という地でした。グラースは、フランスの南東部に位置する都市で、アルプ=マリティーム県にある人口43,874人の都市。カンヌ(Cannes)から電車で25分。ニース(Nice)から電車で1時間という立地。このグラースになんと、熊本から33年前に旅立った一人の主婦がいました。

前置きが長くなりましたが、15回目のゲストはその「一人の主婦」ご本人で、現在「香水の16区」の代表である田中貴子さんです。田中さんのことはFMKで出演されていた番組を聞き、「すごい人だなぁ」と思っていた矢先に、今度はテレビに出演されているのを見て俄然興味がわきました。公職でのお勤めもあわせて今では知る人ぞ知るという存在の田中さんですが、私はこれまでは存じ上げませんでした。
先月初旬にいきなり上通りにあるお店に飛び込み、ブログの主旨を説明してインタヴューの了解を得、ようやくこの日、お忙しい中時間を割いていただきました。閉店間際の19:30から始めさせてもらいましたが、情熱的な田中さんのお話につい聞き入ってしまい、インタヴューを終えたのは、22:00を回ろうとする時間でした。今回2時間半にわたりお話をいただきましたので、このインタヴューは二回に分けてご紹介していきます。

田中さんは、砥用町(ともち;現在、美里町)のご出身。高校卒業後、18歳で電撃結婚をされ、それから長女、長男と二人の子宝に恵まれ、母親と主婦に徹した毎日を過ごされていました。それが、次男の出産を控えた産婦人科の部屋でベッドから見上げる白い天井を眺めながらふと、「この子が20歳になっている頃、私はいくつなんだろう?私は子供を産むためにだけに生まれきたんだろうか?もし主人が逝ってしまったら、私はこの三人の子供たちを育てて行けるのだろうか?」と考えられたそうです。
「このままじゃいけない気がする」と思い立った田中さんは、いても立ってもいられず出産後5日間で退院します。「何かを始めなければいけない」。しかし、当時、乳飲み子を抱え、社会経験のない田中さんを採用してくれそうな会社は見当たらない。そこで、家庭で受講できる通信教育で資格を取ろうと建築図面のトレースの講座に取り組みますが全くちんぷんかんぷん。次に医療事務の講座にもチャレンジしますが、どうもしっくりこずに挫折。
行き詰った田中さんは、「自分に何ができるんだろう?」と悩み続けます。そこで思いついたのは、「昔から動き回ることが好きだったな」ということ。そして、アルバムをめくりながらこれまでの自分を振り返っていると、小学生のときよく男子に「こん、シャレ(洒落)がー」と言われていたことを思い出しました。「そうだ、お洒落のことなら仕事にできるかも・・・」と思い立ちますが、「洋服屋さん?ダメだ、お金がない。理容師?ダメだ、腕がない」と再び行き詰まり。
思い悩む毎日の中で、田中さんは「まず、外に出よう」と決めます。まずは、書店に。そこで、「10万円でできる商売」という本を見つけます。その本には10万円でアクセサリー販売をするノウハウが書かれていました。「これならできるかも」と考えた田中さんの頭にまず浮かんでいたのは、ビジネスの内容ではなく、「新世界」の地下と6年前に開業していた交通センターという店舗候補地の方でした。
店舗の候補は決めたものの、肝心の開業資金がない田中さんは、まだ暗中模索の中でした。そんなある日、7、8年前に読んだ講談社の「若い女性」という月刊誌に掲載されていた一つの記事のことを思い出しました。その記事には、東京・渋谷で変わった形態の香水のお店をやっていた女性のことが書かれていました。田中さんは講談社にこの記事が掲載された雑誌を購入したいと手紙に書きました。しかし、講談社からの返事は待てど暮らせどありませんでした。

(「若い女性」1970年7月号表紙)
何しろ7、8年前のことでもあり、仕方ないかと思う気持ちもありましたが、ダメもとで今度はハガキを書いて送ったところ、数日後にその記事を書いた講談社の担当者から電話があったのです。「その方は、今でもその仕事をされています。私から連絡をしておきますので、一度尋ねてみられてはどうですか?」と。この朗報に喜んだ田中さんは数日後、日帰りの予定で乳飲み子を親戚に預け、東京に飛んでいました。「次男の出産が5月だったから、あれは7月か8月頃だったかな」と。大胆です。
修学旅行以来、二度目の東京。渋谷にあるその会社を10時に尋ねた田中さんに、その女性経営者からかけられた言葉は、「これから仕事で出かけるので夜8時まで待てる?」と。日帰り予定の田中さんは一瞬戸惑いましたが、ここまで来て引き下がるわけにはいきませんでした。約束の時間に再訪した田中さんにその女性経営者から次にかけられたのは、「実は、あなたがいらっしゃることは聞いていました。そこで、どうやってお断りしようかと考えていました」という言葉でした。
その理由を尋ねると、雑誌掲載以来、既に100名以上の人が彼女のもとを訪れたそうですが、成功した人は一人もいないのだということでした。それでも田中さんには彼女に頼るしか道が開けないことがわかっていました。香水の販売をするにあたって事前に県の薬務課やJETROに問い合わせたところ、個人では香水を輸入することができなかったのでした。(彼女から仕入れるしかない)
「資金は?」と問われた田中さんは、思わず「50万円あります」と言ってしまいました。しかし女性経営者から返ってきたのは、「その3倍はかかりますよ」。更に、「50cm四方の固定したスペース」の確保が条件であると伝えられます。田中さんの手持ち資金は、結婚前にご両親からもらった10万円きり。しかもここまでの話は、ご主人には内緒で進めていること。相談などできませんでした。
今でさえ難しい話だと思いますし、当時の田中さんの立場であれば、普通ならここで断念するケースだと思います。しかし、「20年後の仮説」を前に動き始めた田中さんの脳裏には、「やるしかない」という気持ちしかありませんでした。帰熊後、独力で一年をかけてこの開業資金を作りました。後は、実際の店舗をどう手に入れるかの段階に入ることになりました。しかし、未だご主人には内緒の隠密行動でした。
当時交通センターは、伊勢丹の進出で二階をリニューアルすることになっていました。ここが田中さんの狙いです。田中さんはテナント入居交渉に背水の陣で臨みますが、田中さんが要求する「一坪」に担当者は目を丸くしたといいます。呆れて、です。しかし、田中さんの熱意に押された担当者は、最終的に田中さんにエスカレーター下の三角形の空きスペースを提供することになります。リニューアルオープンは11月でした。
そんなある日、家庭で良き妻、良き母を通していた田中さんは、義母様が経営されていたアパートの掃除も律儀にこなしていました。しかし、草むしりやその掃除が原因で、皮膚が荒れ、顔には黄疸が出てくるほどの状態にまで悪化してしまったのです。国立病院に行くと、病名は急性肝炎、即入院の診断を受けます。しかし、翌日にはオープンに向けての契約が待っていました。
「あー、運に見放されたな」と思った田中さんは、悲愴になった心と外見を思いっきりの化粧で隠し、交通センターとの契約に臨みます。すると、運は田中さんを見捨ててはいませんでした。担当者から聞かされたのは、「11月のリニューアルオープン予定が、3月に延びました」という言葉でした。
運を再度掴んだ田中さんにとって、開業準備に入ろうとしている今ここで入院するわけにはいきませんでした。なんと自宅を急場で子供たちと隔離できるように改築して、これで当面を凌ぐことにします。凄い発想です。じっと我慢の一週間。すると、検査後の数値が快復に向かっていることを示していました。「苔の一念 岩をも通す」ということでしょうか?
それでも田中さんは、仮設「隔離施設」で丸まる二ヶ月間の寝たきりの生活を余儀なくされます。当然、開店の準備は進みません。そしてまた、契約日が迫ってきました。そこへ再び神風が。「3月の予定が6月に延びました」。(今なら、田中さんは「ドンダケーッ」と言っているに違いありません)普通の開業準備中のテナントなら一日も早いオープンを望み、むしろこの七ヶ月の延期が死活問題になることもあるでしょうに、田中さんにとっては終始フォローウィンドーでした。
急性肝炎を取り合えずも乗り切った田中さんは、ついに4月、念願の交通センターとのテナント契約を交わすことになりますが、その前に田中さんが超えねばならない最大の難関が待っていました。それは、契約書の保証人になってもらう筈のご主人へ、「2ヵ月後」に交通センターで香水のお店を開店すること伝え、了解を得ることです。「寝耳に水」とは、まさにこのときのご主人の状態を指す言葉でした。
この説得ですべてが上手くいった訳ではありませんでしたが、一人の主婦は開業へのGOサインを手にしました。オープンから突発的に発生する細かな問題を解決しながら、ビジネスは概ね順調に進んでいきました。熊本の一人の主婦が「香りの伝道師」に生まれ変わろうとしていました。(続く)

1万個のバラの花から抽出されるエキス(精油)は、1オンス。1オンスは16分の1ポンドで、約28.35グラム。実にわずかな量です。そして、このエキスの取り出し方に「蒸留法」と「冷浸法」があることを知りました。本作では主人公が、永久に香りを保存する方法としてこの冷浸法を学ぶ事によって起こるサスペンスが伏線となっています。
「香水は、三つの和音からなる」とジャンの師ジュゼッペ・バルディーニ(ダスティン・ホフマン)が語ります。一つは「頭(ヘッド)」で香水の第一印象、次に「心(ハート)」でその香水の主題、最後に「土台(ベース)」で仄かに漂う残り香。この三つにそれぞれ四つの香料の音符がハーモニーを奏でる。こんな話を聞くと、普段香りに無粋な私でさえ首元に一滴忍ばせたくなる、そんな誘惑に駆られます。
この映画の主人公ジャンが、冷浸法の技術習得を求めてパリを旅立ったのがグラース(Grasse)という地でした。グラースは、フランスの南東部に位置する都市で、アルプ=マリティーム県にある人口43,874人の都市。カンヌ(Cannes)から電車で25分。ニース(Nice)から電車で1時間という立地。このグラースになんと、熊本から33年前に旅立った一人の主婦がいました。

前置きが長くなりましたが、15回目のゲストはその「一人の主婦」ご本人で、現在「香水の16区」の代表である田中貴子さんです。田中さんのことはFMKで出演されていた番組を聞き、「すごい人だなぁ」と思っていた矢先に、今度はテレビに出演されているのを見て俄然興味がわきました。公職でのお勤めもあわせて今では知る人ぞ知るという存在の田中さんですが、私はこれまでは存じ上げませんでした。
先月初旬にいきなり上通りにあるお店に飛び込み、ブログの主旨を説明してインタヴューの了解を得、ようやくこの日、お忙しい中時間を割いていただきました。閉店間際の19:30から始めさせてもらいましたが、情熱的な田中さんのお話につい聞き入ってしまい、インタヴューを終えたのは、22:00を回ろうとする時間でした。今回2時間半にわたりお話をいただきましたので、このインタヴューは二回に分けてご紹介していきます。

田中さんは、砥用町(ともち;現在、美里町)のご出身。高校卒業後、18歳で電撃結婚をされ、それから長女、長男と二人の子宝に恵まれ、母親と主婦に徹した毎日を過ごされていました。それが、次男の出産を控えた産婦人科の部屋でベッドから見上げる白い天井を眺めながらふと、「この子が20歳になっている頃、私はいくつなんだろう?私は子供を産むためにだけに生まれきたんだろうか?もし主人が逝ってしまったら、私はこの三人の子供たちを育てて行けるのだろうか?」と考えられたそうです。
「このままじゃいけない気がする」と思い立った田中さんは、いても立ってもいられず出産後5日間で退院します。「何かを始めなければいけない」。しかし、当時、乳飲み子を抱え、社会経験のない田中さんを採用してくれそうな会社は見当たらない。そこで、家庭で受講できる通信教育で資格を取ろうと建築図面のトレースの講座に取り組みますが全くちんぷんかんぷん。次に医療事務の講座にもチャレンジしますが、どうもしっくりこずに挫折。
行き詰った田中さんは、「自分に何ができるんだろう?」と悩み続けます。そこで思いついたのは、「昔から動き回ることが好きだったな」ということ。そして、アルバムをめくりながらこれまでの自分を振り返っていると、小学生のときよく男子に「こん、シャレ(洒落)がー」と言われていたことを思い出しました。「そうだ、お洒落のことなら仕事にできるかも・・・」と思い立ちますが、「洋服屋さん?ダメだ、お金がない。理容師?ダメだ、腕がない」と再び行き詰まり。
思い悩む毎日の中で、田中さんは「まず、外に出よう」と決めます。まずは、書店に。そこで、「10万円でできる商売」という本を見つけます。その本には10万円でアクセサリー販売をするノウハウが書かれていました。「これならできるかも」と考えた田中さんの頭にまず浮かんでいたのは、ビジネスの内容ではなく、「新世界」の地下と6年前に開業していた交通センターという店舗候補地の方でした。
店舗の候補は決めたものの、肝心の開業資金がない田中さんは、まだ暗中模索の中でした。そんなある日、7、8年前に読んだ講談社の「若い女性」という月刊誌に掲載されていた一つの記事のことを思い出しました。その記事には、東京・渋谷で変わった形態の香水のお店をやっていた女性のことが書かれていました。田中さんは講談社にこの記事が掲載された雑誌を購入したいと手紙に書きました。しかし、講談社からの返事は待てど暮らせどありませんでした。

(「若い女性」1970年7月号表紙)
何しろ7、8年前のことでもあり、仕方ないかと思う気持ちもありましたが、ダメもとで今度はハガキを書いて送ったところ、数日後にその記事を書いた講談社の担当者から電話があったのです。「その方は、今でもその仕事をされています。私から連絡をしておきますので、一度尋ねてみられてはどうですか?」と。この朗報に喜んだ田中さんは数日後、日帰りの予定で乳飲み子を親戚に預け、東京に飛んでいました。「次男の出産が5月だったから、あれは7月か8月頃だったかな」と。大胆です。
修学旅行以来、二度目の東京。渋谷にあるその会社を10時に尋ねた田中さんに、その女性経営者からかけられた言葉は、「これから仕事で出かけるので夜8時まで待てる?」と。日帰り予定の田中さんは一瞬戸惑いましたが、ここまで来て引き下がるわけにはいきませんでした。約束の時間に再訪した田中さんにその女性経営者から次にかけられたのは、「実は、あなたがいらっしゃることは聞いていました。そこで、どうやってお断りしようかと考えていました」という言葉でした。
その理由を尋ねると、雑誌掲載以来、既に100名以上の人が彼女のもとを訪れたそうですが、成功した人は一人もいないのだということでした。それでも田中さんには彼女に頼るしか道が開けないことがわかっていました。香水の販売をするにあたって事前に県の薬務課やJETROに問い合わせたところ、個人では香水を輸入することができなかったのでした。(彼女から仕入れるしかない)
「資金は?」と問われた田中さんは、思わず「50万円あります」と言ってしまいました。しかし女性経営者から返ってきたのは、「その3倍はかかりますよ」。更に、「50cm四方の固定したスペース」の確保が条件であると伝えられます。田中さんの手持ち資金は、結婚前にご両親からもらった10万円きり。しかもここまでの話は、ご主人には内緒で進めていること。相談などできませんでした。
今でさえ難しい話だと思いますし、当時の田中さんの立場であれば、普通ならここで断念するケースだと思います。しかし、「20年後の仮説」を前に動き始めた田中さんの脳裏には、「やるしかない」という気持ちしかありませんでした。帰熊後、独力で一年をかけてこの開業資金を作りました。後は、実際の店舗をどう手に入れるかの段階に入ることになりました。しかし、未だご主人には内緒の隠密行動でした。
当時交通センターは、伊勢丹の進出で二階をリニューアルすることになっていました。ここが田中さんの狙いです。田中さんはテナント入居交渉に背水の陣で臨みますが、田中さんが要求する「一坪」に担当者は目を丸くしたといいます。呆れて、です。しかし、田中さんの熱意に押された担当者は、最終的に田中さんにエスカレーター下の三角形の空きスペースを提供することになります。リニューアルオープンは11月でした。
そんなある日、家庭で良き妻、良き母を通していた田中さんは、義母様が経営されていたアパートの掃除も律儀にこなしていました。しかし、草むしりやその掃除が原因で、皮膚が荒れ、顔には黄疸が出てくるほどの状態にまで悪化してしまったのです。国立病院に行くと、病名は急性肝炎、即入院の診断を受けます。しかし、翌日にはオープンに向けての契約が待っていました。
「あー、運に見放されたな」と思った田中さんは、悲愴になった心と外見を思いっきりの化粧で隠し、交通センターとの契約に臨みます。すると、運は田中さんを見捨ててはいませんでした。担当者から聞かされたのは、「11月のリニューアルオープン予定が、3月に延びました」という言葉でした。
運を再度掴んだ田中さんにとって、開業準備に入ろうとしている今ここで入院するわけにはいきませんでした。なんと自宅を急場で子供たちと隔離できるように改築して、これで当面を凌ぐことにします。凄い発想です。じっと我慢の一週間。すると、検査後の数値が快復に向かっていることを示していました。「苔の一念 岩をも通す」ということでしょうか?
それでも田中さんは、仮設「隔離施設」で丸まる二ヶ月間の寝たきりの生活を余儀なくされます。当然、開店の準備は進みません。そしてまた、契約日が迫ってきました。そこへ再び神風が。「3月の予定が6月に延びました」。(今なら、田中さんは「ドンダケーッ」と言っているに違いありません)普通の開業準備中のテナントなら一日も早いオープンを望み、むしろこの七ヶ月の延期が死活問題になることもあるでしょうに、田中さんにとっては終始フォローウィンドーでした。
急性肝炎を取り合えずも乗り切った田中さんは、ついに4月、念願の交通センターとのテナント契約を交わすことになりますが、その前に田中さんが超えねばならない最大の難関が待っていました。それは、契約書の保証人になってもらう筈のご主人へ、「2ヵ月後」に交通センターで香水のお店を開店すること伝え、了解を得ることです。「寝耳に水」とは、まさにこのときのご主人の状態を指す言葉でした。
この説得ですべてが上手くいった訳ではありませんでしたが、一人の主婦は開業へのGOサインを手にしました。オープンから突発的に発生する細かな問題を解決しながら、ビジネスは概ね順調に進んでいきました。熊本の一人の主婦が「香りの伝道師」に生まれ変わろうとしていました。(続く)


