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私、五十路手前の後藤愼一が、熊本で頑張る社長さんやオーナーさんを訪問し、創業の苦労話、これからの夢などあれやこれや聞いて、レポートします。
オーナーへメッセージ

2008年03月31日

世界を目指す熊本在住の若き画家・遠藤徳人(18)

第18回目のゲストにお迎えしたのは、第四回目のゲスト・黒田恵子さんがご自分のギャラリー「ADO」での個展開催などで支援する画家・遠藤徳人(とくひと)さん(24)です。遠藤さんと最初にお会いしたのは2月1日、黒田さんのギャラリーでした。1月22日に最初に「ADO」にお邪魔した際、二階にあるギャラリーで遠藤さんの絵をはじめて見ました。そこに飾られた墨絵調の昇り龍、原色をふんだんに使った龍、抽象的なPOPアートなどなど様々なタッチが印象的でした。

遠藤さんはこの3月、黒田さんのご紹介で取材させていただいた第七回目の渡辺真希子さん、第八回目に登場いただいた「人間建築探検處」の代表であり、建築家の長野聖二さんが代表を務められる「河原町文化開発研究所」のある河原町商店街の住人となりました。今回は、このブログとのカテゴリーとはちっとはずれますが、そんな訳で黒田さんのギャラリーでのインタヴューをお送りします。



遠藤さんに初めてお会いしたとき、彼の分厚いポートフォリオ(作品集)を見せてもらいました。そこにも実に多彩なタッチの絵が並んでいて、その一連の絵に興味を持ちつつ、そんな絵を描く彼自身についても興味がわいたのでした。その中で一際印象的だったのが「ミスターCLOUD」というキャラクターでした。

絵を描き始めた当初、彼の頭の中にこのキャラが突然現われたそうで、何枚もの絵が描かれていました。今回は残念ながらこの「ミスターCLOUD」を紹介できませんが、遠藤さんによると「このキャラは絵に対するモヤモヤした気持ちの表れだったような気がするんです。ですから最近はほとんどこのキャラ自体を描くことはありません」ということでした。しかし、最近は別の角度で自分を見つめ直すことが多いと語る遠藤さん。絵に集中し、自分の世界を描き出す「自分」と社会人としての「自分」の存在。その自分の中のバランスをどう取っていくか?それが今の彼の課題だと。



絵画という方法で自分を表現しようとするアーティストにあれこれ言葉で語ってもらうということに果たしてどれだけ意味があるのか?今回はここに自分なりに疑問を持ちながらインタヴューに臨みました。そんな思いでいた私は、黒田さんにまず、これから遠藤さんに何を望みますかと尋ねてみました。「絵で人の心を動かせないうちは、人として当たり前のコミュニケーションが取れることが大事なことだと思います。遠藤君がそうだということでありませんが、自分の作品を人にきちんと語れる画家になってほしいと思います」と、私の疑問を知ったかのようなコメントをされました。そう言えば岡本太郎さんや日比野克彦さんでさえ実に饒舌に語っているではありませんか。少し気が楽になった私のインタヴューが始まりました。



遠藤さんは開新高校出身。幼い頃から漫画家に憧れて絵を描いてきた彼は、熊本デザイン専門学校に通ううちに画家の道を進むことを選んだといいます。私の年代になると開新高校と言われてもピンときませんが、前身は熊本第一工業高等学校。更に遡ると、熊本鉄道高等学校、明治37年の東亜鉄道学院に行き着くんですね。平成16年に男女共学になっていますから、創立から丸100年間男子校としての歴史を歩んできています。話が逸れました。

絵描きの道を選ぶと言っても、プロとしての画家は当然ながら棘の道。遠藤さんは一時期、就職することも考えたそうですが、就職を決めた途端に大病に遭ったり、再び絵描きを諦めかけたときに知人から個展を開かないかという誘いがあったりと、彼が絵を諦めようとする度に運命が遠藤さんに画業を捨てさせなかった経緯がありました。

絵を描きつつ遠藤さんはずっと「自分らしくある」ことについて思い悩んでいたといいます。人と同じ考え、行動をとることに対する閉塞感がありました。この問題に自分なりの決着をつけられたのが、昨年訪れたアメリカで、そこに暮す人々の日常を知ってからだったそうです。シカゴ、コロンバスを友人とホームステイをしながらの二週間の旅で、現地の人々が自由に自己を主張しながら生きる姿を目の当たりにして「あぁ、こうやって自分らしく生きていいんだ」と自信を持ったそうです。



そんな遠藤さんが絵を描くときに常に考えていることは、ある二つの価値観をどうやったら一つに融合できるかということだそうです。たとえばそれは母親の価値観と父親の価値観。双方共にその価値観を理解できる。そこでこの二つの価値観を掘り下げていく事によってその源泉的な価値観、1+1が別の新たな「1」になるという価値観を導くために思索すること。別の言い方をすれば、卵子と精子が一つになって新しい生命となるというプロセスと結果をどう表現するか。そこに彼のアーティスティックな営みがあります。

遠藤さんは最近この河原町にアトリエを持ちました。「これからは気が狂うほど描きたい」と熱く語ります。このアトリエで6月1日から二週間にわたって開かれるギャラリーADOでの個展に向けて、作品を作り上げていく予定です。魂を込められた作品だけをここで展示したいと語ってくれました。その個展ではライブ・ペイントも披露する予定です。

先日もクラブでライブ・ペイントを行ったそうです。クラブの音楽のテーマが「男が女を口説く」というものだったので、彼の得意とする陰影技法でこのテーマを受けて抽象的な人物を描いたそうですが、「今年一番の自信作っすよ」とご機嫌でした。この絵はまだ会場に残してあって、この日は見ることができませんでしたが、6月の個展には登場するはずです。

遠藤さんに目下のライバルは誰ですか?と尋ねてみました。「art horymen、ado(渡辺真希子)さん、eichiさんには少なくとも負けたくありません。でも、熊本の画家たちの中でも、この河原町に集るアーティストたちのレベルは高いっすよ。マジッ、ヤバイッス」。訳してもらうと、ここに集まるアーティストたちは、趣味や癒しで絵を描いているのではなく、哲学をもって絵を描いている人が多い、ということでした。

最後に黒田さんに遠藤さんの絵について語ってもらいました。「タッチがどうとか、色彩がどうかということではなく、彼の絵に、とにかく『勢い』を感じたんです。彼にはまず絵を通して、たった一人でもいいからその人の心を動かすことができる絵描きになってほしいですね。自分の中で悶々としたものがあれば、その息吹を一枚の絵に入れ込んでほしい。自分のフィルターを通して蒸留水のように浄化した思いを描いてほしいと思っています」と、熱い叱咤激励でした。



遠藤徳人さんへのアクセス;
TEL;080-5214-0740
Emai;art-style.89wrangler@ezweb.ne.jp、cluodtoku@yahoo.co.jp

<遠藤徳人個展>
日時;2008年6月1日~14日
場所;「GALLERY ADO」;熊本市河原町2 
TEL;096-352-1930(OPEN;11:00~20:00)
http://www.just.st/303750
  
Posted by エントワークリンケージ at 17:10
Comments(0)TrackBack(0)注目のアーティスト

2008年03月18日

実と虚の空間を回遊するドルフィンワークス・西田ミワ(17)

全国商工会議所女性会連合会が、平成14年に創設した「女性起業家大賞」という顕彰があります。同賞は、「創業・経営革新に果敢に取り組んでいる女性起業家を顕彰し応援することにより、産業界の男女共同参画社会の実現を推進し、わが国経済の発展に資することを目的とするもの」だそうです。この顕彰は、各地の商工会から推薦された応募企業から選出されるようです。この熊本商工会議所女性会が推薦する賞として「輝女(テルージョ)」があります。

昨年、その「輝女(テルージョ)」に輝いたお一人にドルフィンワークス代表の西田ミワさんがいらっしゃいました。他に三人の女性経営者がいらっしゃいますが、事業面から個人的に関心があった西田さんにインタヴュー依頼をさせていただき、今回お話をうかがいました。という訳で第17回目のゲストは、「コンテンツディレクター/プランナー」、「財団法人生涯学習開発財団認定コーチ」として活躍されている西田ミワさんです。



実は今回のインタヴューを終えて、ちょっと困りました。西田さんにはいろんなメディアからの取材が多く、私があえてここで書くことはないんじゃないかと思うほどだったからです。しかも、取材後、この記事を書くにあたって西田さんからいただいた資料を読みながら何気なくHPをチェックするといきなり、「エントワークリンケージ 後藤愼一様よりネット取材いただくことになりました。どんな視点で取り上げてくださるのか楽しみです^^のちほどご報告いたします」と書かれているではありませんか。暗黙のプレッシャーです。

とは言え、お忙しい中でせっかく頂いた時間ですので、西田さんご自身、今後の事業についてうかがったことを私なりの解釈で皆さんにお伝えしたいと思います。第一稿を西田さんにメールで送ったところ、前述の「暗黙のプレッシャー」について、西田さんから「脳化学的に申しますと、この『ピュアプレッシャー』は”さらなる向上と幸福感を誘発するドーパミンを大量放出”するそうで…」という励ましをいただきました。それでは本題に入ります。



2001年7月の創業以来、なぜ西田さんがこれほど注目を浴びておられるのか?私の西田さんに対する興味はこの点にありました。取材を終えてその答えが理解できたように思います。実は、西田さんに数多くのメディアから取材依頼が寄せられるようになったのは、起業から半年間、売上ゼロという苦境に喘いだ西田さんが、そこから脱するために暗中模索の中でたどり着いて実行した「顔を売る」という行動の賜物だったことがわかりました。

「私と同じように起業した人、起業を目指している人、様々な異業種、同業種の交流会に顔を出し、団体のリーダーやお世話係も積極的に引き受けました」(商工ひのくに)と西田さんは語っています。もちろん西田さんが手がけられようとした事業そのものにメディアが関心を示さなければ、いくら顔を売っても連鎖はしませんね。しかし、事業そのものがどんなにインパクトのあるものでも、それが確実に歩を進めていなければメディアはフォローしてくれません。

西田さんの何がメディアの関心を呼んだのかをもう少し掘り下げてみようと、まず、西田さんがどのようにして起業するに至ったか、そして、西田ミワという女性がどういう方なのかを知るために、起業前のことについて振り返っていただきました。

高校を卒業した西田さんは、ご実家でアパート経営されていることもあって、建築に興味を抱きながら、とあるゼネコンに入社されます。そして、不動産販売に携わる中で宅建主任の資格を取得され、建築業界、不動産業界でのキャリアを積んでいかれました。この辺までの西田さんは業界では一般に見受けられるOLの一人でした。

仕事にも慣れた頃から、西田さんの中で「私自身、果たして世の中でどのくらい通用するのだろう?」という単純明快な疑問がわいてきました。さらにそれが「そもそも、自分とはいったい何者なのか?」という命題に突き当たっていきます。西田さんは23歳のとき、突然思い立って「自分探しの旅」のためにアメリカに旅立ちました。宿だけを確保しながらの、2週間にわたるアメリカの旅です。しかし結局、アメリカでは何も見つけることはできませんでした。

その後熊本に戻った西田さんは、ハウスメーカーで建売住宅の営業職をはじめに様々な仕事を経験されます。数えるとそれは20種類以上にも及ぶといいます。ときには二足・三足のわらじを履いたこともあるそうです。とにかく自分にあった仕事に出会うために「OL時代は原因を外に見つけるのが得意で、気に入らなければ即転職」という「ジョブ・サーフィン」とも言える状況でした。西田さんの「自分探し」はまだ続いていました。

そこへ運命は、西田さんが求める「ほんとの自分」ではなく、「一生のパートナー」を巡り会わせることにしました。この運命の波に乗って28歳で結婚され、翌年ご長女を出産されます。一見順調な新婚生活でした。ところが、家庭に納まった西田さんは社会的な接点を失ったような気持ちから、一時、育児ノイローゼ状態に陥ってしまいます。

この閉塞感の捌け口として西田さんは、当時立ち上がったばかりのメールマガジンに思いのたけをぶつけ始めました。今から10年位前のことですから、今ほどインターネットは盛んではありませんでしたが、このメルマガがなんと1,400名の読者の共感を呼んだのでした。今の西田さんの仕事の出発点はここから生まれたのでした。

以来、西田さんは家庭に加えて「自分の仮の居場所」を見つけて、まずはネット社会を泳ぎまわることになります。ネットサーフィンをしながら、現在の環境の中で再就職の道が固く閉ざされていることもひしひしと感じていました。一方で、メルマガの読者にはいろんな人がいて、彼らから情報提供を受けたり、相談に応えたりする中で、今目の前にあるパソコンとインターネットでなんらかのサービス提供ができるのではないかと考え、西田さんはWEBデザーナーとして独り立ちすることを決意します。




そして、起業。しかし前述のように半年間は全く仕事が入ってきません。西田さんはそんな起業後の苦しみの中からもうひとつ「居場所」について思い至ります。「一人でやってみて初めて、自分にはこれまで会社という後ろ盾があったことが自覚できたんです。そして、そのありがたさに気づいたんです」と。実社会の海は西田さんにとって、ネット社会ほど自由な回遊空間ではありませんでしたが、冒頭の積極的な人脈づくりが少しずつ実っていきました。

「Webデザイナーとして開業はしましたが、何しろ独学ですから、当初はお客様にご協力いただきながら必死で制作していました。そして、やればやるほどその都度、自分に欠けているものがわかってくるんですね。その発見が喜びだったんです。確かに苦労はしましたが、お客様が喜ぶ顔が見たいという気持ちの方が勝っていたと思います」と、西田さんはその当時の思いを語ります。

これまでずっと探していた「自分」が直接的にではなく、結婚、出産、育児というプロセスを経てようやく西田さんの目の前に現われたのです。前述の「やればやるほどその都度、自分に欠けているものがわかってくるんですね。その発見が喜びだったんです」と語る西田さんの言葉とあわせてみると、結局、探している「自分」は、もともと西田さんの中にあったことがわかります。そして「仮の自分の居場所」が「ほんとの自分の居場所」へと変わっていくのです。

西田さんのこんな「自分探し」の話を聞きながら、私は、あるブログの読者同士である武闘派銀行マン「のんた」さんのブログ「潰してたまるか!お前の会社」の次のような記事のことを思い出していました。(http://ameblo.jp/k-hotline/entry-10080027975.html

自分の取り得や才能を、最も簡単に見つけられる方法があります。それは、起業することです。逆に言えば、起業しない限り、あなたの本当の才能を見つけ出すことは出来ません。すでに起業して苦労した人は分かると思いますが、人というものは、一人ぼっちになって初めて、自分自身の力量が分かります。「自分に何が出来るのか」ということを客観視できます。

会社にいる限りは、基本的に温室育ちであることに大差ありません。そんな環境で、いくら自分に何が出来るかを考えてみたところで、客観視することなど不可能です。資格を持っているから大丈夫だろう、営業が得意だから大丈夫だろうという甘い考えは、起業したとたんに吹き飛んでしまいます。そして、最終的には、「自分は何のために生まれてきたのか」ということが分かります。そこから先は、また自分で決めるのです。

私自身がそうであったように、起業して自分が得意だと思っていたことに力を注いだ結果、「こんなはずじゃなかった」と感じることなど日常茶飯事です。好きだと思って始めたのに、実は好きではなかったということがあってもいいのです。そうやって、少しずつ自分を分かっていくことが、起業する喜びでもあるのです。あなたが現在いるところは、世界で一番いいところでもなければ、悪いところでもありません。今がベストだと思っても、外に出るともっといいところがあったという発見をし、世間の広さを知って喜びを知るのです。

自分の取り得を知ってから起業するのではありません。起業することで、自分の取り得を見つけることができるのです。


今の西田さんの本業は、「DOLPHIN WORKS」における、インターネットコンテンツの企画・制作、ブログ・メルマガの執筆代行、そして昨年立ち上げた「STAND UP」における次世代リーダーのための起業家育成活動、ワークショップ等企画運営、加えて共同出版にまでと多岐に及んでいます。更に4月1日からは「STAND UP」の弟分的団体、社会起業家とフリーランスのための情報発信局「SOHOフォレスト」を稼働されるそうです。これは、熊本県を拠点に活動するフリーランサー、社会起業家、個人事業主のシンクタンクとしての位置づけで、交流の場、ビジネスマッチングの場としての受け皿になるようです。

「高度なコミュニケーション能力と、地域やネットワークの媒介としての役目を担う会社でありたい」という願いをこめたという「DOLPHIN WORKS(ドルフィンワークス)」。この屋号は更に、「ボスを目ざすサメとリーダーを目ざすイルカ―上司・同僚・部下から評価されるイルカ型ビジネスのすすめ」(単行本))という本に書かれた次ぎの内容にインスパイアされたものでもあるそうです。




社会で働く人は、男女問わず、サメ(海の殺し屋)、グッピー(自己中心主義者)、イルカ(高い知性を持って、和を大切にする人)に分けられる。それぞれどのようにつきあえばよいか、アメリカのビジネスで成功している女性200人のインタビューを基に構成されたハウツーブック。//内容(「BOOK」データベースより)


そして、女性鉱山労働者になったシングルマザーが、男性社会の中で耐え難いセクシャル・ハラスメントを受け、立ち上がるまでを実話に基づいて描いたシャーリーズ・セロン主演の「スタンド・アップ」からインスピレーションを得たという「STAND UP」。西田さんは「この受け皿を『スター誕生』」に場にしたいんです」と語ってくれました。



最後に今後の活動についておうかがいしました。「私って、思ったことと今やっていることの間にギャップがあったりします。それはいろんなニーズや状況によって、そのときの最もよい形がケース・バイ・ケースで違ってくるからで、私の中ではごく自然な流れで方向転換しています」と笑いながら語る西田さんには何か一筋ピンとしたものが通っていることを感じさせる目の輝きがあります。

第一稿のメールへの西田さんの返信に次のようなメッセージがありました。

もう一つ、私が目指す、社会的なミッションがあります。現代社会においては、従来の社会が「リアル地球」と称するならば、インターネット上では「バーチャル地球」が存在しており、2つの地球が互いに干渉したり、シンクロしあって、現在のような社会が形成されています。(googleなどの影響で加速していますね)

「情報格差」という言葉がありますが、私の解釈では、格差とは、その2つの地球を上手に住み分けできるかできないかの違いによって起こるもの。インフラ面では、日本においては、ほぼ平等に権利を手に入れているのですが、必ず加速していく社会の波に乗れない人も出てくる。私は、その受け皿が絶対的に必要だと思っています。

ドルフィンワークスは、その、リアルとバーチャルをつなぐ潤滑油のような役目と、希薄になりつつある”心”と心の闇に焦点をあて、人と人、ネットワークをつなぐ潤滑油になりたいと思っています。SOHOフォレストも、スタンドアップも、その通過点での試みです。


西田さんのこれまでの話を聞いていると、一人の女性が「顔のない」ネット社会の海に飛び出し、そこでコミュニケーションの必要性を学び、そのことによって「自分」という存在意義がはっきりと実像化され、その実像をまとって「顔のある」実社会に繋がっている姿が見て取れます。そして今度は「顔のある」存在として、再びネット社会の海を自由の泳ぎまわっている姿。

創業以来、なぜ西田さんがこれほど注目を浴びておられるのか?それはネット社会と実社会という二つの社会を泳ぎ回る西田さんの行動範囲が一般人よりも遥かに広いわけですから、当然の帰結な訳です。時には戦略的に網にかかることもあるでしょうし、無作為に泳いでいるところを発見されたりもするでしょう。結果的に露出頻度が高くなり、正のスパイラルを起こすことになるという訳です。

「自分が味わった苦悩や失敗を伝えたり、コーチングすることで、これらから起業する方々が少しでもリスクを回避してもらえるようにサポートしていきたいと思っています。また、意図に反して苦境に立ってしまった方にもフォローできるような体制も組んでいきたいと思います。そして、仕事でも家庭でもストレスなくやっていけるような環境づくりをいろんな方法で目指してきたいですね」と語ってくれました。

西田ミワさんへのアクセスは下記。

ドルフィンワークス
代表 西田ミワ 
OFFICE:(〒862-0902)熊本市東本町16-39-1001
TEL&FAX:096-368-8176 / MOBILE:090-3415-5630
URL:http://dolphin-w.com / MAIL:info@dolphin-w.com
SKYPE:dw-nishida / mixiネーム:旅ねこ
------------------------------------------------------------------------
▼スタンドアップblog更新中!
http://tabineko.otemo-yan.net/
◆「SOHOフォレスト」準備中!

(追記)~西田さんからのメッセージ~

この本になぞりながら、次世代リーダーのあり方について私のメンターである増田紀彦氏がこのような記事を書いておられます。

▼【独立事典デスク:週刊「増田紀彦」通信】
第44回「それぞれの持ち味」 2003.06.27配信
http://www.keyplanet.com/keypla/masuda/masu04.html

求めている仕事のありかたを模索している時、偶然に、増田氏のこの記事を読み、リーダーのあり方について深く感銘を受けました。※増田紀彦氏は、アントレ編集デスクでもあり、起業家でもあり、現在は、NICeのチーフプロデューサーでもあります。

▼NICe(起業家SNS) 経済産業省プロジェクト
http://www.nice-vec.jp/  
Posted by エントワークリンケージ at 16:46
Comments(6)TrackBack(0)注目の経営者・リードオフマン&ウーマン

2008年03月16日

音楽で農業支援、ツゥートクエンジニアリング・永脇泰夫(16)

ミュージックバナナというバナナをご存知でしょうか?宮崎県の都城でモーツアルトを聞いて育ったバナナのことです。バナナ自体は青い状態で輸入して、日本で追熟してから販売する商品。ミュージックバナナは、フィリピンの海抜300メートル以上の高地で栽培されたバナージュという優良品種をコンテナ積みのまま都城へ輸送し、熟成倉庫に搬入し、モーツァルトを聞かせて熟成しているといいます。



モーツアルトの曲には8000ヘルツ以上の高周波音とゆらぎの音がたくさん含まれていて、あるゆるものの分子を活性化する作用があると言われ、「モーツアルト効果」という言葉まで生まれています。波動がキーワードだそうです。私はまだ食べたことはありませんが、消費者調査では90%近くの人が一般のバナナよりもおいしいと回答しているという結果も出ているそうです。

このミュージックバナナを認定しているのが「日本音楽熟成協会」です。この協会は、「音楽熟成の研究と開発により、その成果を会員および一般に啓発・普及し、もって社会の健全な発展に寄与する事を目的」とし、会長は七田チャイルドアカデミー、右脳開発で有名な七田眞さんです。「都城大同青果」がこの協会に技術的なアドバイスを受けて音楽熟成されたこのバナナは傷みも少ないということです。

また前置きが長くなりましたが、16回目のゲストは、こうした話とは関係なく熊本県の農業を音楽の力で再生させたいと昨年1月下旬に起業した㈱ツゥートクエンジニアリング・代表取締役の永脇泰夫さん(50)です。永脇さんとのご縁は、第6回目のゲスト田上菜穂美さんのオフィスがある「夢挑戦プラザ21」にお邪魔した際に、入居会社一覧を見て同社のことを知り、田上さんに紹介していただきました。



永脇さんは御船町のご出身。小学校から高校まで御船で過され、前職の建設会社で25年間、音響設備の仕事に携わっておられました。公共ホールや学校の音響、放送設備、映像、通信システム設備の設計・施工という仕事です。折からの公共事業費の削減で事業が縮小化に向かう中、これまでの技術を、同じく苦境にあえぐ県内農業の再生に活かしたいということで独立、起業されました。

会社名の「ツゥートク」は前職の会社名から。「社長に頼んで暖簾分け的にいただきました」と、前職の仕事と会社に愛着を持つ技術者としての永脇さんのお人柄が現われています。この会社から二人の後輩を引き連れての起業でした。ちなみに「ツゥートク」は、「通信、特殊機器」の頭文字を取ったネーミングです。

ミュージックバナナの話とは関係なく、と書きましたが、この話は永脇さんからお聞きしたものです。永脇さんも音楽を使って農作物を栽培したり、牛や豚、鶏などにモーツァルトなどの音楽を聞かせる農家があるということは勿論ご存知で、それだからこそこの事業に足を踏み入れられた訳です。起業後にいろいろ情報収集してみたところ、その試みが全国的に行われていたことがわかった、ということで、このミュージックバナナの話もその一つです。

そして永脇さんの情報収集の中から紹介してもらったのが「タンパク質の音楽」(ちくまプリマーブックス)という本です。この本の紹介文には次のようなコメントがありました。



「タンパク質と音楽。まったく関係がないように見えるこの2つの事柄が、実はとても深く結びついているのです。地球上のあらゆる生命活動が、タンパク質の奏でる音楽に左右されていると言っても過言ではありません。“タンパク質の音楽”の用途はさまざま。正しく利用することによって、近い将来、農業や医療の世界に革命がもたらされることになるでしょう」

タンパク質の分子構造を音符に置き換えるとなんと、クラシック調のメロディーが紡ぎだされるというのです。「たんぱく質の音楽」には次にように書かれています。

「ウシにモーツァルトを聞かせると乳がよく出る」。音楽の効果を示すのによく取り上げられる話である。ところがその理由となると、「ウシも音楽でいい気持ちになり、乳の出もよくなったのだろう」くらいにしか考えられていない。だがステルンナイメール博士の提案した《タンパク質の音楽》理論によれば、この現象も十分に説明ができるのだ。

乳腺の発達や乳汁の分泌を促すタンパク質として、プロラクチンが知られている。その機能から、乳腺刺激ホルモンとも呼ばれる。そこでステルンナイメール博士は、このタンパク質をメロディに置き換えることを思いついた。果たして予想に違わず、モーツァルト的としか言いようのない部分が含まれていたのだ。


この本が永脇さんのインスピレーションを裏付けました。「『安全でおいしい食の追及』をテーマに、第一次産業(農業・畜産・酪農・養鶏等)を音楽と音響設備で支援しよう。ビニールハウス・牛舎・豚舎に高品の音楽を流し、農作物・家畜に癒しの空間を作り出し、生産性の向上を目指そう」と。現状では各農家が独自に取り組んでいる音楽熟成を、永脇さんは一つのシステムとして構築し、安価に提供したいと考えておられます。

例えば、朝5時からモーツァルトが流れ7時に自動的に止まるシステム。日によって、時間によって流す曲を自動的に変えるシステムなどなど。また、動物の条件反射も性質を利用して、餌を与える時間を音楽で知らせたり、乳牛には相当なストレスになるという搾乳時に音楽でストレスを緩和したりといろいろな応用が可能だそうです。



「耳のある動物なら音楽を聞かせても効果がありそうなことはわかってもらえますが、耳のない植物に効果があるのかとよく聞かれます。でも実際は植物こそ、この音楽が効果的なんですね。音楽、音響は空気振動です。植物はこの空気振動を敏感に受容してくれるのです。よい空気振動は、光合成を促進したり、水分の吸収力を高めるという研究結果もあります。ですから、動物よりも植物は感受性が高いと言えますよ」と永脇さん。確かに観葉植物に声をかけるとよく育つという話はよく聞きますよね。

目下の課題は二つ。音響設備による研究データが少ないこと。また、このデータを取るには研究機関と農業施設が必要になって、資金も時間もかかる。ですから、永脇さんは今のところこのシステムを積極的に販売しようとは思っていません。ご自分の収穫する農作物に付加価値をつけたいと積極的に考えている農家の方々と一緒に取り組んでいきたいというのが永脇さんの意向です。

もう一つは、この25年間ずっと建設業に携わっただけに、農業関係者の人脈が少ないことです。現在は前職時代の音響設備の仕事で経営を支えながら、農業関係者の人脈を少しずつ広げて早めにこの事業へ本格的に転換することを目指されています。また将来的には水産業への応用も視野に入っています。

研究データは少なくとも「音楽を聞かせて育った野菜は、甘味が強くておいしい」という話は少なくありません。この辺は当面、実証主義ではなく経験主義でいくしかないと私もそう思います。「今、日本の食の安全が問われていますね。30%台の低い自給率、飼料の高騰による生産コスト増を打開するためには日本の地産地消を高めることです。一日も早く農業の再生を実現しければならない。そのために役に立ちたい。私たちは挑戦します」と永脇さんは熱く語られました。

この記事をご覧頂いた農家の方、知り合いに農家の方がいらっしゃる方で興味のある方は下記までアクセスして下さいね。

㈱ツゥートクエンジニアリング
上益城郡益城町田原2081-10 夢挑戦プラザ21 オフィス1号室
TEL;096-214-5233
FAX;096-289-3177
E-mai;tsutoku-engl@bz03.plala.or.jp  
Posted by エントワークリンケージ at 09:21
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2008年03月13日

香りの伝道師、「香水の16区」田中貴子(15)(下)

オープンから翌年、田中さんに香水業界のツアーへの参加の話が舞い込みます。香水の本場、フランス、パリ、そして冒頭で触れたグラースへの旅です。田中さんの店は順調に推移し、交通センター内テナントでの坪当たりの売上がトップになる程。旅費を捻出することにはなんら問題がない状態でした。田中さんは絶好のチャンスと、このツアーに申し込みます。

初めて訪れるフランスでしたが、田中さんが注目したのはパリではなく、グラースでした。街中が香っているのです。グラースの数ある精油工場の煙突からはもくもくと煙が出ていますが、それは黒煙ではなく、バラなどから精油を抽出するための蒸留過程で出る水蒸気でした。この水蒸気によってグラースは「世界で唯一結核患者のない街」と言われ、「アロマテラピーの原点の地」だとされるそうです。田中さんは研究室への見学にも刺激され、そこの先生方と記念撮影など撮って楽しい時間を過ごしました。

日本に帰った田中さんは、また子育てと仕事に追われる日々の中に戻っていました。そんな年の夏、交通センターに向かう途中で夕立に合います。一瞬の雨で温まった地面が蒸されたかのような蒸気を立てます。それと同時に、花壇の土からスミレの精油を抽出しているような香りが漂ってきたのです。田中さんの脳裏は一瞬にしてあのグラースの光景とシンクロしていました。「いても立ってもいられなくなく」病が再発しました。




最初の訪問からまだ半年。田中さんは再びグラースの地にいました。たった一人で。田中さんは前回のルートを思い出しながら、前回訪れた研究所を目指します。田中さんが話せるフランス語は「ボンジュールとグラース」だけ。「片言でも気持ちは通じるものよ」と。到着した研究所の進入制止バーを軽く潜り抜け、制止しようとする警備員のフランス語に「ボンジュール」と応えながら、一気にエントランスまで。

エントランスには三人の女性が待ち構えていたそうです。おそらく「あなたは誰ですか?」とか「何をしに来たのか」と問われたはずです。田中さんは「私は半年前にこの研究所にきた日本人です。研究室の先生に会うためにはるばる日本から来たのです」と日本語で伝えたようです。しかし、田中さんの目にもその女性たちが、明らかに「帰れ」と言っているのはわかっていました。

しかしここまで来て引き下がることができないのが、田中さんです。田中さんはあろうことか、その三人の女性の間を潜り抜け、走り出したのです。目的の研究室へのルートはまだ記憶に新しい。その研究室まで一気に駆け抜ける作戦、いや衝動でした。走る田中さん、追う三人のフランス人。階段を駆け上り、お目当ての研究室の扉をノックし、突入。扉の向こうには、きょとんとした先生の姿。

田中さんはバッグから去年一緒に先生と撮影した写真を素早く取り出し、「覚えていますか?私です。先生に会いに日本からまた来たのです」と、多分何語ともとれない言葉で訴えたのでした。そのとき、「追っ手」の三人が部屋に駆け込んできました。先生は、「大丈夫だよ。下がっていいよ」(多分)と彼女たちを返しました。

先生のデスクの前に座った田中さんの鼻先にすーっと試験紙が差し出されます。田中さんは「ローズ?」と答える。「ウィ」と先生。「次は?」とこういうやり取りが暫く続いたそうですが、良く考えると奇妙な光景ですよ。先生はフランス語で語りかけ、田中さんは笑って「ウィ」と応え続けます。そして、弾む(?)会話を通じて、言葉での会話はできないままでも心は満たされていました。

先生との再会を果した田中さんは、グラースの町を大手を振って歩き回ったそうです。話に聞き入っていた私は、「それで、その先生に会いに行かれた今回の目的はなんだったんですか?」と尋ねました。すると「先生に会いたかっただけよ」と。恐るべし、肥後の女。




帰国後も田中さんはお店でパフューマーに会った話をしながら、心は次にグラースを訪ねることしかなかったそうです。そして次ぎの年、また次ぎの年とグラースとその先生を訪ねる中で、田中さんにはこの先生から「そんなに香りが好きなら、ここで勉強しませんか?」と言われたように聞こえたそうです。

田中さんは、一回目のフランスツアーでコーディネーターをやっていた日本人パフューマーにこの間、何通か手紙を書いていたそうですが、これまで返事が返ってこなかったそうです。ところが、数回目の訪問のとき、偶然にも彼からコンタクトがあったのです。パリに戻った田中さんはそのパフューマーに先ほどの先生とのやり取りを話しました。以来、そのパフューマーとは家族ぐるみのお付き合いだそうです。

熊本に帰った田中さんのもとへ、暫くして彼から連絡が入りました。「来年の2月にこちらに来られますか?入学が許可されることになりましたよ。私が推薦人になっておきましたから」と。そのスクールとは世界的にも有名なグラース市の由緒ある香料会社のラボ(研究室)でした。通常であれば大手化粧品メーカーなどの取引先から、しかも数人しか入学できないラボです。田中さんが断る理由はありませんでした。

それから10年後、田中さんは(有)パフューマークラブを設立。お店もさすがに手狭になり、さらに5年後、新市街に店舗「香りの16区」を移転します。時は1990年。開業から15年目のことでした。ちなみに「16区」とは、「パリの16区」からのインスピレーション。1960-70年代まで、ブルジョワエレガンスがここパリ16区に住む人々の特徴でした。20世紀初頭の建築という視点から言っても一番美しい場所、美しい言葉が残る場所の一つに数えられるといいます。




田中さんは満を持したように、翌年、厚生省から化粧品製造許可を取得し、NHK福岡文化センターでフレグランススクールを開校。更に1993年にはNKK熊本文化センターに同校熊本校を開校、熊本市政策審議懇談会委員、熊本市香りの森建設委員会委員の役職を務められます。

そして、2001年、熊本県から「県の香りマイスター」に任命されます。更に、翌年、厚生省より化粧品輸入許可を取得。続いて臭気判定士協会の理事に就任。そして、同年、フランスパフューマ―(調香師)協会の正会員になられます。今では、東京とグラースにもオフィスを構えておられます。田中さんのグラースへの訪問回数は既に50回以上にも及んでいるそうです。

すっかりグラース通となった田中さんは、かねてからグラース市長にパフューマー養成スクールの開設を打診していました。そして2003年についに、それが「Grasse Institute Perfumery(GIP)」という形で実現することになりました。今では各国からこのスクールへの入校依頼が殺到し、日本人枠が狭められるほどの人気になってしまっているそうです。

田中さんが福岡と熊本で開校したフレグランススクール(パフューマー・香りのスペシャリスト養成スクール)は既に33期生にまで達しています。卒業生の中には世界的に有名な香料会社の香料研究所に入社し活躍している方もいらっしゃいます。

この田中さんが今取り組まれているものには、「香りによる空間演出」、「高齢化社会とアロマコロジーを考える会」、「国際香りと文化の会」などがありますが、詳しくはHPを参照いただくとして、私が最も注目したいのは「九州香りアイランド構想」というプロジェクトです。




九州の恵まれた自然環境では、今でも森林浴、海水浴、太陽浴、温泉浴、花香浴をいたるところで楽しむことができます。これに新たに「芳香浴」をテーマにしたアグリ・レジャーランドを築こうというものです。香りのある植物を植え、それを抽出することによって新しい農業の新しい分野が広がることに貢献したいというものです。

減反政策や後継者の問題で人手の加わらなくなった田畑で季節の花々や香りのある植物を栽培する。「それは、売る花々や植物であってもいいし、グラースのように蒸留施設を作って精油精製をしてもいい。蒸留施設が出来る事によってその地域は豊かな香りの水蒸気で覆われ、アロマテラピー効果を発揮してそこに住む人々を心身ともに癒すことができる。その香りに誘われ、観光客も呼べるかもしれない」と田中さん。

グラースでは土地柄、主食になるような作物をつくることはできません。それだからこそ、かんきつ類などは実、皮、葉、更には種に至るまで抽出する技術を確立しているそうです。そんなグラースを見ているからこそ、田中さんには九州のこの素晴しい環境が野放しになっていることに残念な思いがあります。

例えば、ご当地の香り、四季の香りを香水にすること。田中さんは熊本市からの依頼を受け、
●森の都「森のかたらい」・・・リフレッシュ用
●水の都「川のささやき」・・・リラックス用
●肥後六花「花らんらん」・・・高揚(明るい成分)
という3部作の「くまもとの香り」を創作しています。

また、八代の名産・晩白柚の香りを抽出した香水もあります。これは、(社)熊本県物産振興協会
からH19年度の優良商品金賞を受賞されています。更に、これに晩白柚を使った焼酎、ジャム、石鹸などをセットにすることによって、晩白柚自体の付加価値を高める。そして、八代のあの駅前の臭いのイメージを晩白柚の香りで一掃することができないか?これは私が後付で勝手に妄想したものですが・・・。




2006年11月、今の「香水の16区」にお店を移転し、今では熊本市桜町に香水抽出用のラボも作りました。最後になりますが、田中さんと「香水の16区」に関する一番ホットなニュースは、なんと「東大」「NASA」、そして「紙飛行機」がキーワード。「香り」の無重力、あるいはマッハの世界での影響を研究するプロジェクトにも参加しておられるのです。詳しくは、
http://www.yamaguchi.net/archives/005142.html)で。

とにかく「動き回るのが好きな」一人の主婦が、自分の居場所、やりがいを求めて駆け抜けた33年間。留まることが嫌いな田中さんの駆け足は、とうとう宇宙科学研究の領域にまで達していました。他にも老人介護、目の不自由な方へのサポート役としての「香り」の可能性の研究などなど田中さんの頭の中にはやりたいことが一杯です。熊本から世界へ、香りの伝道師は今日も駆けずり回ります。


香水専門店「香水の16区」;
〒860-0845 熊本市上通町5-6-1F
TEL:096(325)0418 FAX:096(326)8709
ホームページ;http://www.pluto.dti.ne.jp/~kaori16/
E-mail;kaori16@pluto.dti.ne.jp
営業時間:11:00~20:00休み:無休
  
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2008年03月12日

香りの伝道師、「香水の16区」田中貴子(15)(上)

先日、「パフューム~ある人殺しの物語~」(独、仏、スペイン/2006年)という映画を見ました。「18世紀のパリ、悪臭のたちこめる魚市場で産み落とされたジャン=バティスト・グルヌイユ(ベン・ウィショー)。驚異的な嗅覚を持つがゆえに、奇怪な青年として周囲に疎まれている彼は、ある晩、芳しい香りの少女に夢中になり、誤って殺してしまう。その後、彼は少女の香りを求めて調香師になり、香水作りに没頭するが……」(シネマトゥデイ)というストーリーです。




1万個のバラの花から抽出されるエキス(精油)は、1オンス。1オンスは16分の1ポンドで、約28.35グラム。実にわずかな量です。そして、このエキスの取り出し方に「蒸留法」と「冷浸法」があることを知りました。本作では主人公が、永久に香りを保存する方法としてこの冷浸法を学ぶ事によって起こるサスペンスが伏線となっています。

「香水は、三つの和音からなる」とジャンの師ジュゼッペ・バルディーニ(ダスティン・ホフマン)が語ります。一つは「頭(ヘッド)」で香水の第一印象、次に「心(ハート)」でその香水の主題、最後に「土台(ベース)」で仄かに漂う残り香。この三つにそれぞれ四つの香料の音符がハーモニーを奏でる。こんな話を聞くと、普段香りに無粋な私でさえ首元に一滴忍ばせたくなる、そんな誘惑に駆られます。

この映画の主人公ジャンが、冷浸法の技術習得を求めてパリを旅立ったのがグラース(Grasse)という地でした。グラースは、フランスの南東部に位置する都市で、アルプ=マリティーム県にある人口43,874人の都市。カンヌ(Cannes)から電車で25分。ニース(Nice)から電車で1時間という立地。このグラースになんと、熊本から33年前に旅立った一人の主婦がいました。




前置きが長くなりましたが、15回目のゲストはその「一人の主婦」ご本人で、現在「香水の16区」の代表である田中貴子さんです。田中さんのことはFMKで出演されていた番組を聞き、「すごい人だなぁ」と思っていた矢先に、今度はテレビに出演されているのを見て俄然興味がわきました。公職でのお勤めもあわせて今では知る人ぞ知るという存在の田中さんですが、私はこれまでは存じ上げませんでした。

先月初旬にいきなり上通りにあるお店に飛び込み、ブログの主旨を説明してインタヴューの了解を得、ようやくこの日、お忙しい中時間を割いていただきました。閉店間際の19:30から始めさせてもらいましたが、情熱的な田中さんのお話につい聞き入ってしまい、インタヴューを終えたのは、22:00を回ろうとする時間でした。今回2時間半にわたりお話をいただきましたので、このインタヴューは二回に分けてご紹介していきます。




田中さんは、砥用町(ともち;現在、美里町)のご出身。高校卒業後、18歳で電撃結婚をされ、それから長女、長男と二人の子宝に恵まれ、母親と主婦に徹した毎日を過ごされていました。それが、次男の出産を控えた産婦人科の部屋でベッドから見上げる白い天井を眺めながらふと、「この子が20歳になっている頃、私はいくつなんだろう?私は子供を産むためにだけに生まれきたんだろうか?もし主人が逝ってしまったら、私はこの三人の子供たちを育てて行けるのだろうか?」と考えられたそうです。

「このままじゃいけない気がする」と思い立った田中さんは、いても立ってもいられず出産後5日間で退院します。「何かを始めなければいけない」。しかし、当時、乳飲み子を抱え、社会経験のない田中さんを採用してくれそうな会社は見当たらない。そこで、家庭で受講できる通信教育で資格を取ろうと建築図面のトレースの講座に取り組みますが全くちんぷんかんぷん。次に医療事務の講座にもチャレンジしますが、どうもしっくりこずに挫折。

行き詰った田中さんは、「自分に何ができるんだろう?」と悩み続けます。そこで思いついたのは、「昔から動き回ることが好きだったな」ということ。そして、アルバムをめくりながらこれまでの自分を振り返っていると、小学生のときよく男子に「こん、シャレ(洒落)がー」と言われていたことを思い出しました。「そうだ、お洒落のことなら仕事にできるかも・・・」と思い立ちますが、「洋服屋さん?ダメだ、お金がない。理容師?ダメだ、腕がない」と再び行き詰まり。

思い悩む毎日の中で、田中さんは「まず、外に出よう」と決めます。まずは、書店に。そこで、「10万円でできる商売」という本を見つけます。その本には10万円でアクセサリー販売をするノウハウが書かれていました。「これならできるかも」と考えた田中さんの頭にまず浮かんでいたのは、ビジネスの内容ではなく、「新世界」の地下と6年前に開業していた交通センターという店舗候補地の方でした。

店舗の候補は決めたものの、肝心の開業資金がない田中さんは、まだ暗中模索の中でした。そんなある日、7、8年前に読んだ講談社の「若い女性」という月刊誌に掲載されていた一つの記事のことを思い出しました。その記事には、東京・渋谷で変わった形態の香水のお店をやっていた女性のことが書かれていました。田中さんは講談社にこの記事が掲載された雑誌を購入したいと手紙に書きました。しかし、講談社からの返事は待てど暮らせどありませんでした。




                                  (「若い女性」1970年7月号表紙)

何しろ7、8年前のことでもあり、仕方ないかと思う気持ちもありましたが、ダメもとで今度はハガキを書いて送ったところ、数日後にその記事を書いた講談社の担当者から電話があったのです。「その方は、今でもその仕事をされています。私から連絡をしておきますので、一度尋ねてみられてはどうですか?」と。この朗報に喜んだ田中さんは数日後、日帰りの予定で乳飲み子を親戚に預け、東京に飛んでいました。「次男の出産が5月だったから、あれは7月か8月頃だったかな」と。大胆です。

修学旅行以来、二度目の東京。渋谷にあるその会社を10時に尋ねた田中さんに、その女性経営者からかけられた言葉は、「これから仕事で出かけるので夜8時まで待てる?」と。日帰り予定の田中さんは一瞬戸惑いましたが、ここまで来て引き下がるわけにはいきませんでした。約束の時間に再訪した田中さんにその女性経営者から次にかけられたのは、「実は、あなたがいらっしゃることは聞いていました。そこで、どうやってお断りしようかと考えていました」という言葉でした。

その理由を尋ねると、雑誌掲載以来、既に100名以上の人が彼女のもとを訪れたそうですが、成功した人は一人もいないのだということでした。それでも田中さんには彼女に頼るしか道が開けないことがわかっていました。香水の販売をするにあたって事前に県の薬務課やJETROに問い合わせたところ、個人では香水を輸入することができなかったのでした。(彼女から仕入れるしかない)

「資金は?」と問われた田中さんは、思わず「50万円あります」と言ってしまいました。しかし女性経営者から返ってきたのは、「その3倍はかかりますよ」。更に、「50cm四方の固定したスペース」の確保が条件であると伝えられます。田中さんの手持ち資金は、結婚前にご両親からもらった10万円きり。しかもここまでの話は、ご主人には内緒で進めていること。相談などできませんでした。

今でさえ難しい話だと思いますし、当時の田中さんの立場であれば、普通ならここで断念するケースだと思います。しかし、「20年後の仮説」を前に動き始めた田中さんの脳裏には、「やるしかない」という気持ちしかありませんでした。帰熊後、独力で一年をかけてこの開業資金を作りました。後は、実際の店舗をどう手に入れるかの段階に入ることになりました。しかし、未だご主人には内緒の隠密行動でした。

当時交通センターは、伊勢丹の進出で二階をリニューアルすることになっていました。ここが田中さんの狙いです。田中さんはテナント入居交渉に背水の陣で臨みますが、田中さんが要求する「一坪」に担当者は目を丸くしたといいます。呆れて、です。しかし、田中さんの熱意に押された担当者は、最終的に田中さんにエスカレーター下の三角形の空きスペースを提供することになります。リニューアルオープンは11月でした。

そんなある日、家庭で良き妻、良き母を通していた田中さんは、義母様が経営されていたアパートの掃除も律儀にこなしていました。しかし、草むしりやその掃除が原因で、皮膚が荒れ、顔には黄疸が出てくるほどの状態にまで悪化してしまったのです。国立病院に行くと、病名は急性肝炎、即入院の診断を受けます。しかし、翌日にはオープンに向けての契約が待っていました。

「あー、運に見放されたな」と思った田中さんは、悲愴になった心と外見を思いっきりの化粧で隠し、交通センターとの契約に臨みます。すると、運は田中さんを見捨ててはいませんでした。担当者から聞かされたのは、「11月のリニューアルオープン予定が、3月に延びました」という言葉でした。

運を再度掴んだ田中さんにとって、開業準備に入ろうとしている今ここで入院するわけにはいきませんでした。なんと自宅を急場で子供たちと隔離できるように改築して、これで当面を凌ぐことにします。凄い発想です。じっと我慢の一週間。すると、検査後の数値が快復に向かっていることを示していました。「苔の一念 岩をも通す」ということでしょうか?

それでも田中さんは、仮設「隔離施設」で丸まる二ヶ月間の寝たきりの生活を余儀なくされます。当然、開店の準備は進みません。そしてまた、契約日が迫ってきました。そこへ再び神風が。「3月の予定が6月に延びました」。(今なら、田中さんは「ドンダケーッ」と言っているに違いありません)普通の開業準備中のテナントなら一日も早いオープンを望み、むしろこの七ヶ月の延期が死活問題になることもあるでしょうに、田中さんにとっては終始フォローウィンドーでした。

急性肝炎を取り合えずも乗り切った田中さんは、ついに4月、念願の交通センターとのテナント契約を交わすことになりますが、その前に田中さんが超えねばならない最大の難関が待っていました。それは、契約書の保証人になってもらう筈のご主人へ、「2ヵ月後」に交通センターで香水のお店を開店すること伝え、了解を得ることです。「寝耳に水」とは、まさにこのときのご主人の状態を指す言葉でした。

この説得ですべてが上手くいった訳ではありませんでしたが、一人の主婦は開業へのGOサインを手にしました。オープンから突発的に発生する細かな問題を解決しながら、ビジネスは概ね順調に進んでいきました。熊本の一人の主婦が「香りの伝道師」に生まれ変わろうとしていました。(続く)  
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2008年03月07日

生産から販売への転進、熊本産直センター・広瀬生夫(14)

14回目のゲストは、(有)熊本産直センター、代表取締役・広瀬生夫さん(59)。広瀬さんとのご縁は、先月20日に行われた某セミナー後の交流懇談会でご挨拶させていただいたことからでした。熊本県の特産品であるスイカ、メロン他季節の果物やお米、馬刺しに至るまでの店舗販売とインターネットを利用したオンラインショップで開店されて以来、右肩上がりの成長を遂げられています。

セミナー終了後の講師への質問タイムに、広瀬さんは「付加価値のつけ方」について質問なさっていました。講師の方のお答えが、「ちょっと的を射ていないなと」思った私は、僭越ながら個人的な意見を後日メールで送信させていただいても構わないかと打診してみました。広瀬さんからはなんの躊躇もなく「どんどんお聞きしたい」というお応え。ここで私は、広瀬さんの「器」に関心を持ちました。




広瀬さんのお店は植木町役場に近い国道3号線沿いにあります。熊本市内からも10Km程の距離。お昼前の1時間をいただき、半ば強引にインタヴューさせていただきました。事務所にお邪魔すると、ボア襟付きの革ジャンにジーンズという、そのままハーレーかなんかに乗って出かけてもおかしくないいでたちで、お客様と商談のお電話中でした。

広瀬さんは山鹿市鹿央町のご出身。今年還暦をお迎えになるそうですが、とてもそんな風には見えません。実家は何代も続く大きな農家の長男としてお生まれになっています。熊本農業高校を卒業とともに農業一筋に27年間、スイカ、メロン、米を作り続けてこられました。そして24年目のあるとき、自分が作った作物が産地ではなく、そのまま県外に流れて行くこと、消費者の顔が見えないことに疑問を抱くようになります。

「自分でつくったものを自分で消費者に直接届けたくなったんです」と思い立った広瀬さんは、トラックに100個のスイカを積み込み、路面販売を試みたのでした。今では見かけることの多い販売形式ですが、当時は誰もそんなことはやっていません。加えて、事前に周辺地域にオリコミ広告を1000部入れ、販売時には手書きの看板(POP)を準備してのチャレンジ。結果は予想以上の反応でした。

ここで消費者との直接のコンタクトに手ごたえを得た広瀬さんは、翌年奇抜な発想でスイカの販売にチャレンジします。それは「冬のスイカ」。クリスマスに向けて夏の風物詩を売るという逆転の発想でした。狙いは見事に的中し、大きな成功を得ました。ここにも広瀬さんのしかけがありました。熊日新聞にこの「冬のスイカ」の有料パブリシティ広告を打っていたのです。これによって、広告の力を実感されたそうです。

生産者としての商品に対するゆるぎない自信と、これをどうにかして消費者に届けたいという熱意、販売者の論理ではなく、あくまでも生産者の論理を貫き通す思いが受け入れられない筈はありませんね。そして、翌年。広瀬さんは新たなチャレンジに挑むのです。それは店舗販売へのチャレンジ。適当な場所を捜し歩いて見つけたのが、現在の3号線沿いに立つこの店舗がその場所でした。ここに「広瀬スイカ園」と名づけました。

この場所は元々自動車整備工場だったそうですが、それが空き家になっていたのです。広瀬さんは地主さんから三ヶ月の期限付きで借り受けることにしました。当時は近隣に同業が12店舗もあったにも関わらず、です。しかし、この競争厳しい商圏の中にあっても広瀬さんのお得意のマーケティング戦略が功を奏します。それはDMでした。これまでで掴んだ消費者とのコンタクトをしっかりここで花開かせたのです。この三ヶ月間での売上は、これまでの農業収入を上回るものでした。

この三年間の地道なリサーチを経て、広瀬さんは27年間続けてきた生産者から販売者への転進を決意します。広瀬さん、46歳の起業です。長男であった広瀬さんの決意に、ご両親は全く反対されなかったそうです。

三ヶ月間の期限だった店舗販売が今年で14年目に入りました。驚くのは、果物の販売事業で9年目に1億円の売上に達したことに加え、この14年間右肩上がりの成長が続いていることです。バブル崩壊後の出店とは言え、ずっと右肩上がりで成長するには何か秘策がなければなかなかできることではありません。その秘訣を広瀬さんにうかがいました。

「別に特別なことはしていません。これまでやって良かったことを、次やるときに更に良くしてきたことです。そしてお客様の要望をよくお聞きし、その要望に応えることです」と、さらっと答えられました。ナルホド。「お客様に間違いのないものを提供しています。競合店のことは意識したことがありません。ただお客様に喜ばれるにはどうしたらいいのか、それだけです」。

今ではオンラインショップも好調で、同社のお客様は全国で5万9千名に。昨年は12月にメロンの注文が殺到したそうです。4名の社員の方に企画を任せたところ、それぞれの企画が見事に当たったのです。

ここまでお話を聞いてきて広瀬さんのお話には、経営につきものの苦境がありません。あえて聞いてみると、「人間、本気になったらなんでもできるんです。私は物事を一切否定しませんし、プラス志向に徹しているだけです」と。「広瀬さんには幸運の女神がついているようですね」と私が言うと、「幸運の女神は誰にでもついていますよ。ただ、この女神が見えない人が少なくないでしょうね。私にはしっかり見えていますよ」と笑って答えられました。

最後に若い起業家へのメッセージをお願いしました。「熱意は誰もが持っているんですね。大切なのは取り組む姿勢です。それにどんな経験でも積んでおくこと。そのときは何の足しにもならないと思う経験でも、それはそれで自分の中の引き出しに納まって行くんです。そしてある日、その引き出しが必要になるときが必ずやってきますよ」。



先日、広瀬さんは出身校の熊本農業高校で「出前授業」を行ったそうです。今年で3年目になるとか。その授業で使われたペーパーの中に(有)熊本産直センターの企業理念が書かれていました。

★(有)熊本産直センター(以下、KSC)は、お客様への品質の良いおいしい新鮮なものを、早く提供することで、満足と喜びを感じて頂くように、日々新た、まごころから最善を尽くして努力精進します。

★KSCは、常に視野を広げ、耳を澄まし時代の進化を柔軟かつ敏感にキャッチして時流に乗って進みます。

★KSCは、消費者の皆様だけでなく、生産者、流通業者、社員他KSCの業務に関わって頂くすべての人々に感謝の念を抱き、皆が善くなるようにという思いで行動します。

★KSCは、常にスピードを意識して、サービスと商品のブランド化に邁進します。

どれも、広瀬さんのお人柄をそのまま映したような理念だと思います。中でも三つ目の理念が、私が冒頭で感じた「器」なんだと感じました。そして、二枚目のペーパーに書かれていたのが、エマーソン語録でした。広瀬さんがこのアメリカの思想家に出会ったのは高校生の頃だったそうです。詳しくはお聞きしませんでしたが、農家の長男として家業を継ぐ決心をした高校時代の広瀬さんの思いを垣間見たような気がしました。




ラルフ・ワルド・エマーソン(Ralph Waldo Emerson、1803年5月25日-1882年4月27日)は、アメリカ合衆国の思想家、哲学者、作家、詩人、エッセイスト。アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンに生まれる。18歳でハーバード大学を卒業し21歳までボストンで教鞭をとる。その後ハーバード神学校に入学し、伝道資格を取得し、牧師になる。

(有)熊本産直センター
〒861-0132
鹿本郡植木町植木115-1
TEL;096-273-4888(代)、FAX;096-273-4830
E-mail;hirose@crocus.ocn.ne.jp
ホームページ;http://www.kudamono39.net/
  
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2008年03月02日

お客様のドレス必ず探します、「KINA」代表土本宏子(13)

13回目のゲストは、「アメブロ」で互いに読者であるドレスショップ「KINA」のオーナー・土本宏子さん(24)。彼女は21歳でドレスの訪問販売を始めて、二年目の昨年6月にオンラインSHOPをオープン、続いて翌月の7月にはリアル店舗「KINA」を下通りの光琳寺通り沿いに出店しました。今月の20日に24歳になったばかりの土本さんに対する私の興味は、彼女がビジネスを訪問販売、出張販売から始めたという点にありました。15:00開店前の1時間をいただき、このうら若きドレスショップ・オーナーに話をうかがいました。




いきなり余談ですが、私が約束の10分前にショップの前を通りかかったときに、なんと一軒手前の隣のビルの隙間から黒煙が立ち始めているではありませんか。そこに置かれた建築材のボードから出火していたのです。気づいたときには、近隣のお店から慌てて出てこられた女性から消火器を受け取り、消火活動をしていました。出火の原因は定かではありません。

短い消火活動を終えた私は、約束の時間に「KINA」に到着。ワインレッドの絨毯とブラックの内装の店内にはドレスやスーツが所狭しと並んでいます。そこに土本さんと店長の池田晴美さんがいらっしゃいました。挨拶もそこそこに、まず、「KINA」というネーミングについてうかがうと、彼女の愛犬(オスのパグ)の名前をつけたそうです。毛が黄色だったことから「キナ」。この「キナ」は彼女のブログでも度々登場していました。

彼女がこの「KINA」を始めたきっかけは、三年前にとあるテレビ番組でキャバクラ女性の24時間を追ったルポルタージュを見たことでした。その中で登場したある男性が、新宿で女性たちにドレスを訪問販売している模様があって、彼女にインスピレーションをもたらしました。「これなら、私でもできるかも」→「これ、私ならできるな」→「これをやろう」と瞬時に決断したそうです。(外では消防車のサイレンの音が聞こえていました・・・)

土本さんは中高時代に、自分が団体行動で生活することに違和感を持っていました。思い悩んだ末、彼女はご両親に相談して高校中退の道を選び、社会に出ることを決めます。居酒屋のアルバイトから始め、18歳になったときにキャバクラ、そしてクラブの世界へ。そのときには三つの仕事を掛け持ちでこなしていたといいます。土本さんにとっては忙しい仕事も、「世の中にはこんなにいろんな仕事があるんだ」という好奇心が先立ちました。しかもこの三年間で仕事をしながら、彼女は通信教育で高校卒業の資格も取得しています。

自分が夜の仕事で着用していたことからドレスの訪販を決意したものの、アパレル業界の知識、販売経験のない彼女は、これまでのつてを頼ったり、ネットで熊本や全国に仕入先を求めますが、既存のドレスショップとのバッティングなどで仕入れさせてくれるメーカーがなかなか見つかりませんでした。そんな中、土本さんに「韓国なら安く仕入れられる」という情報が飛び込んできました。暗中模索中の彼女はあれこれ考えるよりも先に、まず友人と韓国に飛んでいました。なぜか、釜山(プサン)へ。

「韓国のこと、何も知らなかったんです。韓国なら釜山だと思って行きました」と。結構大胆です。「当然韓国語も喋れないので、釜山で日本語を話せる人を探して友達になって、ドレスの仕入先を教えてもらったんです。そうしたら、それならソウルに行きなさいって言われたんですね」。土本さんは、その「友達」から韓国で有名なメーカーの情報を得て、いったん帰国後、今度は一人でソウルに向かいます。

釜山のときと同じように、初めてのソウルでも日本語の喋れる韓国人を探して、そのお目当ての仕入先に行き着いた彼女が仕入れたドレスは50着。このドレスをもとに、いよいよ移動販売「KINA」の第一歩がスタートします。実際販売してみると、サイズの違いなどがあっていくつか問題点があることがわかってきました。仕入先との何度かのやり取りを通じて、いつしか先方にカット、縫製を指示できるようにまでなっていました。

訪問販売先は紹介先から紹介先へと広がり、県内で契約店は30店舗に達しました。九州各地の訪問先へもその流れで鹿児島、宮崎、大分と広がっていきました。私が不意に「他県へ出張されるときにはどんなホテルに泊まるんですか?」とお聞きしたところ、「いえいえ、そんな勿体ないことはできません。すべて日帰りです。一度に100着ほど持って行くんですが、はじめはすべて一人でやりました。お客様の仕事柄、朝の4時から販売開始なんてこともあります。今は出張先に搬入などお手伝いしてくれるスタッフがいるので、多少は楽になりました」と。かなりパワフルです。

熊本を中心に九州各地で実績を積んでいく土本さんの姿がいつしか業界関係者の間で噂になり、日本のメーカーからも声がかかるようになります。今ではメーカーサイドから営業に来るほどになっているそうです。街を歩いていると今でもキャバクラからスカウトされたりするそうですが、土本さんは逆に営業をかけることもしばしばあるそうです。まだ電話でしか話したことのない仕入先の社長さんからもブログを見て、「全国的に見ても一番若いオーナーだ。頑張れ」と言われましたという程の活躍ぶりです。




そして、昨年のオンラインSHOPとリアル店舗「KINA」のオープン。「最初は、外販一本でやっていくつもりでした。お店を出すなんて全く考えていませんでした」と語る土本さん。「外販を続けているうちに、どうしても外販に行けないお客様がいらしたり、周りから店を出したらいいじゃないかとか、君ならできるよなんて言ってくれる方々がいて、じゃ、やってみようと思うようになったんです」。

出店資金は、昨年の5月に国民金融公庫からの融資を取り付けました。「自分で事業計画も作りました。最終的には税理士さんの助言を受けながらですけど・・・」と、立派な事業家です。オープンのときは、数多くのスタンド花が寄せられ、ショップのある3階から1階までの階段で納まりきれずに、光琳寺通りにまで並ぶほどだったそうです。取り扱い商品は、今では国内メーカーのものになっているそうです。なかでも、㈱HOT CLOTHING社の「R」、「WPC(WAY PAST COOL)」などは、仕入元と「KINA」の完全独占販売。

土本さんのモットーは、「お客様にあったドレスは必ず探し出します」ということ。「今の若い女性は細い人が多いんですよ。私よりもふたまわり位細いんです。そんなお客様にもピッタリのドレスや、逆に私よりふたまわり位大きいサイズのドレスなど、他所ではなかなか見つけられないものでも、私たちは必ず準備する自信があります」と、この点だけはやけに力が入っていました。さすがにオーナーです。

ちなみに土本さんは170cmの長身。しかもヒールを履いているので180cmには達していて、私には充分スリムに見えますし、サイズはM(9号)だそうです。彼女の言う、ふたまわり細いサイズとはSS。実物を見せてもらいましたが、実にか細いスーツでした。外販のみのころは、ドレス一本でしたが、店を構えるようになって、ダンス衣装、スーツ、パーティ用ドレスなどを求める顧客が増えたそうです。




土本さんにこれからの目標を聞きました。「売上の目標は特にありません。お金はどうでもいいんです。まずは、お客様に喜んでもらえるドレスやスーツを一着でも多く提供することです。そのためにオンラインやリアルのショップを充実させることです」。彼女の仕事上の立ち位置は、「無理はしないこと。自分で出来ることは自分でやる。できないことは、できる方にお願いすること」と、実に自然体です。

「学生のころは、心のどこかで自分の居場所がないと思っていました。バイトを掛け持ちしていたころは、一日が終わって、家に帰って寝るだけの毎日でした。楽しかったけれど、明日に希望なんて持っていませんでした。でも、今は忙しいんですが、今日そして、明日に希望が持てるようになりました。そして、ここに自分の居場所があることが何より幸せです」。

「今、引きこもりが話題になっていますけど、私には彼らの気持ちがわかるんです。でも、社会に出ることは私にもできたんだから、皆にも必ずできると思っています。特に自営業は、私がそうだったように、引きこもっている人に向いていると思うんです。一つの価値観ではなく、いろんな価値観があって、それをどう活かすかの自由があるからです。是非とも外の世界に一歩踏み込む勇気を持ってほしい」。

土本さんにこれまでの23年間を振り返ってもらうと、こんな言葉が返ってきました。忙しくなった、そんな彼女にとって今残念なことは、外販に行く機会が少なくならざるを得ないことでした。他県への外販では観光などする時間がない彼女ですが、他県の風景や人々に触れることが今でも新鮮で好きなのだそうです。

「人生の最期に、土本宏子ってどんな女性だったと言われたいですか?」とお聞きしました。「自由な人だった、と言われたいです」という返事でした。団体行動が嫌だったいう彼女が、自らの行動によって多くの顧客を得、それが今、全国に広がっていることに率直に驚きを感じます。しかし、束縛されない自らの行動が、今の土本宏子さんを活き活きと輝かせている。それがすべてを語っているのだと思いました。

土本さんが外販で培った人脈は更に広がり続け、オンラインSHOPで全国の顧客を掴み、リアルSHOPで地元の新たな顧客層を確実に掴みつつあります。土本さんは意識することもなく結果的にビジネスの基本を一歩一歩歩んでいます。インタヴューを終え、「KINA」を後にしながら表に出ると警察が火元の現場を検証中でした。自分の足元を見ると、靴が消火剤で真っ白でした。




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Posted by エントワークリンケージ at 03:42
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