去る4月19日、第17回目のゲスト・西田ミワさんの主催で熊本ブロガー交流会が行われました。その宴席で正面に座っておられた男性がいらっしゃいました。自然に話を始めて、名刺を頂くと肩書きに「
織り師」とありました。何を織っておられるのか尋ねると、「畳です、イグサを織っています」と。それからイグサにまつわる話から始まり、うかがう内容に惹かれるように聞き込んでいくうちに、いつのまにかインタヴューを申し出ていました。
そんな訳で、今回のゲストは「織り師」
岡初義さん(51)です。インタヴューは4月22日、岡さんの八代市鏡町にあるご自宅で行いました。当日は、西田ミワさんと交流会の二次会でご縁ができた夢子さんにも同行していただくという両手に花の状態の車中でした。ナビのない私の車で、おおまかな地図と菜の花畑を頼りに向かいましたが、一度だけ通り過ぎたものの、無事到着しました。
表題の「アグリ・ファンタジスタ」は、私が勝手につけた造語です。ずば抜けた技術を持ち、創造性に富んだ、予想外のプレーを見せる天才的なサッカー選手を「ファンタジスタ」と呼ぶそうですが、岡さんのお話や仕事ぶりを実際に見て、その発想力と行動力に敬意を込め、私は岡さんをあえて「アグリ・ファンタジスタ」と呼びたいと思います。まずは、岡さんが取り組んできたイグサの世界を見ておきます。
~日本の文化は、古来、中国大陸からの伝承をもとにしたものが多いのですが、畳は大和民族の生活の知恵が生み出した固有のもので、湿度が高く、気象の変化が激しい日本の風土に、最も適した敷物として育てられ、継承されてきました。瑞穂の国にふさわしく、稲わらを利用して床をつくり、野生のいぐさを改良して畳表を織り、畳という素晴しい敷物をつくりあげたわけです。旧漢字でたたみを「疊」と書きます。これは田圃からとれる稲わらを交互に積み重ねたとの意味があります。~(全国畳産業振興会HP)
畳表は「くまもと表(おもて)」と「びんご表」がわが国では双璧だといいます。残念ながら全国的には「びんご表」の方が有名なのだそうです。熊本県のい業は、興善寺城(八代市竜峰)城代・相良伊勢守の与力であった岩崎主馬忠久公が、現在の八代郡千丁町大牟田の上土(あげつち)城主になったおり、領内の古閑淵前に永正2年(1505)、いぐさを栽培させ、製織を奨励したことが始まりとされています。一方、広島県で生産されるびんご畳表は天文、弘治(1532-57年)の頃だといいますから、「くまもと表」が日本の畳表の草分けなんですね。
岡さんはこの伝統ある八代で数少なくなったイグサ生産者のお一人です。ご承知のようにイグサは今でも八代市が全国トップの生産地ですが、近年の日本における需要の低下は関係者の方々には死活問題で、その凋落ぶりは目に余るものがあります。数年前に生産者の方の自殺が相次ぎ、この小さな町村で十数名にのぼったことも記憶に新しいところです。
「イグサの日本における主な産地は熊本県八代地方であり、国産畳表の8~9割のシェアを誇る。他には石川県・岡山県・広島県・高知県・福岡県・佐賀県・大分県でも見ることができる。一方で近年、中国などの外国産の安価なイグサが輸入され(セーフガードまで発動した)、全流通量に対し国産畳表は3~4割ほどのシェアがあり、また住宅の洋室化とも相まってイグサ生産農家の減少が危ぶまれていたが、近年になり自然素材、健康志向の高まりによりその価値に注目が集まっている」。(ウィキペディア)
この記事にあるように、近年になりイグサに注目が集っていることは事実でしょうが、2005年以降の栽培面積は1631ヘクタールと十年前の約五分の一に減少していて、面積縮小に歯止めがかからないのが現状です。そんな苦境にあるイグサ生産の当事者である岡さんですが、岡さんの発言や行動には夢がいっぱい詰まっていました。今回は、苦境にあっても夢を追いかける、まさにこのブログの表題を文字通り邁進する岡さんにお話をうかがったわけです。(1631ヘクタール≒東京ドーム350個分)
岡さんは昭和32年2月13日のお生まれで、岡家七代目の当主です。奥様と長男、次男、長女の三人のお子様がいらっしゃいます。岡さんの活躍は県内外に知れ渡っていて取材もたくさん受けられています。その模様は後述するサイトのリンクを張っておりますのでそちらをチェックしていただきたいと思います。このブログでは、岡さんの人となりについて多少なりとも迫っていければと思います。
岡さんの人生観を知る上でエポックメイキングな出来事があります。それは、岡さんがこれまで三度も死に直面していることです。最初はその人生の始まりで、出生時に1800gの未熟児だったこと。未熟児は、一般に、出生時の体重が2500グラム未満をいうそうですが、1500グラム未満を極小未熟児、1000グラム未満を超未熟児ともいうそうですから、岡さんは極小未熟児に近かった。医療体制の整った今と違い、52年前ですから、おのずとその生死は危ぶまれたといいます。
次に、幼稚園の頃。近所の川で遊んでいた子供たちを橋の欄干から見ていた岡さんは、突然誰かに突き落とされてしまいます。岡さんはその川に投げ出されました。岡さんにこの間が記憶は全くなく、気づいたら自宅の布団で寝ていたそうです。
そして三度目は中学生の頃。蜆貝を採りに一人で出かけたとき、岡さんは勢い余って深水にはまってしまい、そこから抜け出せない状態になって気を失ってしまいました。周囲には誰もいなかったことは記憶にあるそうですが、この深水から自力で出た記憶がないといいます。このときも気づいたら土手の上で寝ていたそうです。幼稚園、中学生時代のいずれの場合も、記憶を失って意識が戻るまでのプロセスが岡さん自身にとって謎なのです。私たちにも謎です。
このような三度の隣死体験から岡さんの中で、「自分は生かされている」という認識を持たれるようになります。そして、生きていることを積極的に楽しもう、そのためには自分がやりたいことを周囲にわかるように「旗をあげる」ようにしよう、という積極的な活動につながっていきます。岡さんの仕事の核となる、い業での伝統的な「中継ぎ表」という畳の織り、これを復活させることは、その一つでした。
~畳表の伝統折である中継ぎ表は、備後地方(広島県・福島県)長谷川右衛門(1532~57)が発明し、幕府へ献上表として納めています。権力の象徴として畳は、台座、寝具としても使用されておりました。2日で1畳しかできません。現在、日本畳表手織り伝統技術者は全国で2人だけとなり備後いぐさを使用し1日~2日かけて1畳分の畳表が織られます。本場びんごいぐさ・減農薬・無農薬表を利用して、手織りオーダー可能です・・・~(有限会社 健康畳植田HP)
この二人とは、広島県福山市の
広川広志さん(63)と、もうお一人が岡さんなのです。岡さんの「織り師」の肩書きはこの「中継ぎ表」織りのことを指しています。2005年、京都市上京区京丹波町にある京都御苑内に京都迎賓館が開館しました。その迎賓館に「桐の間」があって、ここの畳が「中継ぎ表」で250枚織られていますが、岡さん全国文化財畳保存会の会員として参加されました。この「中継ぎ表」を2000年熊本県「くらしの工芸展」で、飾ることをイメージしタペストリーとして出展され、みごと、い草部門でグランプリを受賞されました。
一般の畳では、日焼け防止と乾燥の時間を早めるために、専用の自然の泥(「染土(せんど)」と言います)を溶かした液にいぐさを浸してから乾燥する方法が考え出されました。これを泥染め(どろぞめ)と言います。この泥染めにより、新しい畳独特の香りと色が出てくるといいます。しかし、岡さんはこの土染めをしません。これによって畳の目につまった土を拭き取る作業が必要なくなるといメリットがありますが、「色」「ツヤ」「肌触り」すべてが染土した畳とは違って、本来のイグサの良さを出すためです。また、減農薬栽培を行うことによって、環境にも健康にも優しい畳となりまるわけです。
岡さんの師匠は勿論お父様ですが、もう一人、農林水産大臣賞を五回授賞した名古屋の
河野栄さん(享年79)という方がいらっしゃいました。この河野さんでさえ染土したイグサを作っておられた程です。無染土畳表という技術がいかに高いレベルのものかがうかがい知れます。ちなみに、河野さんはかなり前に八代の岡家を訪ねたことがあるそうで、父上との交流もあったようです。一方、河野さんの晩年には彼を氏と仰ぐ仲間とともに岡さんは名古屋まで田植えの手伝いに行かれたそうですが、事情を知らない近所の人々から、「河野さんが外人部隊を連れてきた」と噂されたといいます。
苦境を強いられるイグサ生産の現状にあって、岡さんはこうした正統派のイグサを作り続け、さらにはご本人が「畳表の逆襲」と語る「香雅美(かがみ)草」の商品開発などを手がけてきました。しかし、このイグサ業の苦境の原因が主に中国産の輸入に原因だと思っていた私は、岡さんから別の要因を教えてもらいました。
「昔は冠婚葬祭のときには必ず畳換えをやったものです。日本の畳需要は実は7億畳あるんです。畳のニーズが減った理由には、中国産の輸入増といった外的要因がありますが、一般家庭でお客などの外の人を部屋に人を入れないようになったことも要因の一つです。物を買い過ぎで、特に畳の部屋が物置に化してしまっているんですね。これでは、畳換えをしようとは思わないでしょう」
「また、住宅建築でもリフォームでも、以前は畳を中心に考えた京都(京間)式でしたが、現在では建物を中心に考えた建築様式になってしまっています。イグサから和紙、PP(ポリプロピレン)への転換も進んでいますしね。全国の畳屋さんにももっと頑張って欲しいとお思いますよ」と、岡さんは淡々と語られましたが、その表情には複雑な気持ちを滲ませておられました。
岡さんにはイグサの生産者として、やれるだけのことはやってきたという自負がありました。年々縮小するマーケットの中で、イグサ生産者でいることの難しさを肌に焼き付けながら、織り師としてのプライドを持ちつつ、さらにはイグサの二次製品づくりにも着手しました。しかし、岡さんの脳裏には、果たしてこの先何年続けているだろうかという切実な緊迫感に苛まれない日はありません。そんなある日、お父様の逝去を境に、岡さんの中で長らく眠っていた生産者としての初心が芽生えたのでした。
それは、お父様が亡くなった次の年、平成11年に父上が「夢枕に立った」ことで始まりました。岡さんはこれまでもなんとなく、堆肥代わりに菜の花の残菜を使うことで自然の農業が可能になり、その田んぼでできたお米がとても美味しいということを聞いて知ってはいました。夢枕で父上が「今年の菜の花は良うできた。今年はお米もい草良う出来るバイ」と岡さんに語りかけます。
菜の花を作ってないのに、なぜそんなことを?と訝る岡さんは、これはきっと「菜の花を作りなさい」ということなのかもしれないと思ったそうです。そして、その日から間もなくして、「母の実家の妹さんの息子が畝を作ったんだけれど、今、その田んぼが空いていて勿体ないという話になりました。聞けばそこは祖母の実家の近くでもあったんですね。それなら、そこに菜の花を植えてみようかということになった」のです。
初めて岡さんとお会いしたその席で見せていただいたのが、持参されたファイルに張られていたたくさんの菜の花畑の写真でした。岡さんが手がけた「ごろっとやっちろ菜の花畑」、そこに今年3月に600万本の菜の花が咲き誇りました。ファイルの写真はそのときの写真でした。岡さんの視野には2011年の九州新幹線の全面開通が入っています。3年後の春に新幹線が八代を通過するとき、車窓から見えるのは30haの「ごろっとやっちろ菜の花畑」に咲き誇る1200万本の菜の花の黄色い絨毯の一面です。東京ドーム6.4個分の菜の花畑です。岡さんの新たな挑戦は、既に9年目を迎えました。さらに3年後にそれは、「ごろっとやっちろ菜の花畑」として大きな花を咲かせるのです。
岡さんの5月30日付のブログで菜種の収穫が無事終わったことが報告されていました。この収穫から「菜種あぶら」が生まれ、「幻の菜の花ハチミツ」が生まれます。そしてその残菜は「菜の花米」の肥料として土に栄養を与えるのです。無駄が一切ない、循環型の農業の営みが、新幹線沿線を菜の花畑にするという大きな夢とつながっていることを知るとき、岡さんの汗と笑顔に本物の生産者の気概を見るのです。
岡 初義さんへのアクセスは次のアドレスで。
「ファミリーファーム OKA」(
http://www2.ocn.ne.jp/~farm-oka/)
「九州新幹線沿線は、菜の花畑」(
http://blog.livedoor.jp/nanohana33/)
「FMK EVENING JOURNAL」(
http://www.fmk.fm/journal/06_10_11.html)