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私、五十路手前の後藤愼一が、熊本で頑張る社長さんやオーナーさんを訪問し、創業の苦労話、これからの夢などあれやこれや聞いて、レポートします。
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2008年06月19日

イグサと菜の花に賭けるアグリ・ファンタジスタ、岡初義(23)

去る4月19日、第17回目のゲスト・西田ミワさんの主催で熊本ブロガー交流会が行われました。その宴席で正面に座っておられた男性がいらっしゃいました。自然に話を始めて、名刺を頂くと肩書きに「織り師」とありました。何を織っておられるのか尋ねると、「畳です、イグサを織っています」と。それからイグサにまつわる話から始まり、うかがう内容に惹かれるように聞き込んでいくうちに、いつのまにかインタヴューを申し出ていました。





そんな訳で、今回のゲストは「織り師」岡初義さん(51)です。インタヴューは4月22日、岡さんの八代市鏡町にあるご自宅で行いました。当日は、西田ミワさんと交流会の二次会でご縁ができた夢子さんにも同行していただくという両手に花の状態の車中でした。ナビのない私の車で、おおまかな地図と菜の花畑を頼りに向かいましたが、一度だけ通り過ぎたものの、無事到着しました。





表題の「アグリ・ファンタジスタ」は、私が勝手につけた造語です。ずば抜けた技術を持ち、創造性に富んだ、予想外のプレーを見せる天才的なサッカー選手を「ファンタジスタ」と呼ぶそうですが、岡さんのお話や仕事ぶりを実際に見て、その発想力と行動力に敬意を込め、私は岡さんをあえて「アグリ・ファンタジスタ」と呼びたいと思います。まずは、岡さんが取り組んできたイグサの世界を見ておきます。

~日本の文化は、古来、中国大陸からの伝承をもとにしたものが多いのですが、畳は大和民族の生活の知恵が生み出した固有のもので、湿度が高く、気象の変化が激しい日本の風土に、最も適した敷物として育てられ、継承されてきました。瑞穂の国にふさわしく、稲わらを利用して床をつくり、野生のいぐさを改良して畳表を織り、畳という素晴しい敷物をつくりあげたわけです。旧漢字でたたみを「疊」と書きます。これは田圃からとれる稲わらを交互に積み重ねたとの意味があります。~(全国畳産業振興会HP)

畳表は「くまもと表(おもて)」と「びんご表」がわが国では双璧だといいます。残念ながら全国的には「びんご表」の方が有名なのだそうです。熊本県のい業は、興善寺城(八代市竜峰)城代・相良伊勢守の与力であった岩崎主馬忠久公が、現在の八代郡千丁町大牟田の上土(あげつち)城主になったおり、領内の古閑淵前に永正2年(1505)、いぐさを栽培させ、製織を奨励したことが始まりとされています。一方、広島県で生産されるびんご畳表は天文、弘治(1532-57年)の頃だといいますから、「くまもと表」が日本の畳表の草分けなんですね。





岡さんはこの伝統ある八代で数少なくなったイグサ生産者のお一人です。ご承知のようにイグサは今でも八代市が全国トップの生産地ですが、近年の日本における需要の低下は関係者の方々には死活問題で、その凋落ぶりは目に余るものがあります。数年前に生産者の方の自殺が相次ぎ、この小さな町村で十数名にのぼったことも記憶に新しいところです。

「イグサの日本における主な産地は熊本県八代地方であり、国産畳表の8~9割のシェアを誇る。他には石川県・岡山県・広島県・高知県・福岡県・佐賀県・大分県でも見ることができる。一方で近年、中国などの外国産の安価なイグサが輸入され(セーフガードまで発動した)、全流通量に対し国産畳表は3~4割ほどのシェアがあり、また住宅の洋室化とも相まってイグサ生産農家の減少が危ぶまれていたが、近年になり自然素材、健康志向の高まりによりその価値に注目が集まっている」。(ウィキペディア)





この記事にあるように、近年になりイグサに注目が集っていることは事実でしょうが、2005年以降の栽培面積は1631ヘクタールと十年前の約五分の一に減少していて、面積縮小に歯止めがかからないのが現状です。そんな苦境にあるイグサ生産の当事者である岡さんですが、岡さんの発言や行動には夢がいっぱい詰まっていました。今回は、苦境にあっても夢を追いかける、まさにこのブログの表題を文字通り邁進する岡さんにお話をうかがったわけです。(1631ヘクタール≒東京ドーム350個分)

岡さんは昭和32年2月13日のお生まれで、岡家七代目の当主です。奥様と長男、次男、長女の三人のお子様がいらっしゃいます。岡さんの活躍は県内外に知れ渡っていて取材もたくさん受けられています。その模様は後述するサイトのリンクを張っておりますのでそちらをチェックしていただきたいと思います。このブログでは、岡さんの人となりについて多少なりとも迫っていければと思います。

岡さんの人生観を知る上でエポックメイキングな出来事があります。それは、岡さんがこれまで三度も死に直面していることです。最初はその人生の始まりで、出生時に1800gの未熟児だったこと。未熟児は、一般に、出生時の体重が2500グラム未満をいうそうですが、1500グラム未満を極小未熟児、1000グラム未満を超未熟児ともいうそうですから、岡さんは極小未熟児に近かった。医療体制の整った今と違い、52年前ですから、おのずとその生死は危ぶまれたといいます。

次に、幼稚園の頃。近所の川で遊んでいた子供たちを橋の欄干から見ていた岡さんは、突然誰かに突き落とされてしまいます。岡さんはその川に投げ出されました。岡さんにこの間が記憶は全くなく、気づいたら自宅の布団で寝ていたそうです。

そして三度目は中学生の頃。蜆貝を採りに一人で出かけたとき、岡さんは勢い余って深水にはまってしまい、そこから抜け出せない状態になって気を失ってしまいました。周囲には誰もいなかったことは記憶にあるそうですが、この深水から自力で出た記憶がないといいます。このときも気づいたら土手の上で寝ていたそうです。幼稚園、中学生時代のいずれの場合も、記憶を失って意識が戻るまでのプロセスが岡さん自身にとって謎なのです。私たちにも謎です。

このような三度の隣死体験から岡さんの中で、「自分は生かされている」という認識を持たれるようになります。そして、生きていることを積極的に楽しもう、そのためには自分がやりたいことを周囲にわかるように「旗をあげる」ようにしよう、という積極的な活動につながっていきます。岡さんの仕事の核となる、い業での伝統的な「中継ぎ表」という畳の織り、これを復活させることは、その一つでした。





~畳表の伝統折である中継ぎ表は、備後地方(広島県・福島県)長谷川右衛門(1532~57)が発明し、幕府へ献上表として納めています。権力の象徴として畳は、台座、寝具としても使用されておりました。2日で1畳しかできません。現在、日本畳表手織り伝統技術者は全国で2人だけとなり備後いぐさを使用し1日~2日かけて1畳分の畳表が織られます。本場びんごいぐさ・減農薬・無農薬表を利用して、手織りオーダー可能です・・・~(有限会社 健康畳植田HP)

この二人とは、広島県福山市の広川広志さん(63)と、もうお一人が岡さんなのです。岡さんの「織り師」の肩書きはこの「中継ぎ表」織りのことを指しています。2005年、京都市上京区京丹波町にある京都御苑内に京都迎賓館が開館しました。その迎賓館に「桐の間」があって、ここの畳が「中継ぎ表」で250枚織られていますが、岡さん全国文化財畳保存会の会員として参加されました。この「中継ぎ表」を2000年熊本県「くらしの工芸展」で、飾ることをイメージしタペストリーとして出展され、みごと、い草部門でグランプリを受賞されました。





一般の畳では、日焼け防止と乾燥の時間を早めるために、専用の自然の泥(「染土(せんど)」と言います)を溶かした液にいぐさを浸してから乾燥する方法が考え出されました。これを泥染め(どろぞめ)と言います。この泥染めにより、新しい畳独特の香りと色が出てくるといいます。しかし、岡さんはこの土染めをしません。これによって畳の目につまった土を拭き取る作業が必要なくなるといメリットがありますが、「色」「ツヤ」「肌触り」すべてが染土した畳とは違って、本来のイグサの良さを出すためです。また、減農薬栽培を行うことによって、環境にも健康にも優しい畳となりまるわけです。

岡さんの師匠は勿論お父様ですが、もう一人、農林水産大臣賞を五回授賞した名古屋の河野栄さん(享年79)という方がいらっしゃいました。この河野さんでさえ染土したイグサを作っておられた程です。無染土畳表という技術がいかに高いレベルのものかがうかがい知れます。ちなみに、河野さんはかなり前に八代の岡家を訪ねたことがあるそうで、父上との交流もあったようです。一方、河野さんの晩年には彼を氏と仰ぐ仲間とともに岡さんは名古屋まで田植えの手伝いに行かれたそうですが、事情を知らない近所の人々から、「河野さんが外人部隊を連れてきた」と噂されたといいます。

苦境を強いられるイグサ生産の現状にあって、岡さんはこうした正統派のイグサを作り続け、さらにはご本人が「畳表の逆襲」と語る「香雅美(かがみ)草」の商品開発などを手がけてきました。しかし、このイグサ業の苦境の原因が主に中国産の輸入に原因だと思っていた私は、岡さんから別の要因を教えてもらいました。





「昔は冠婚葬祭のときには必ず畳換えをやったものです。日本の畳需要は実は7億畳あるんです。畳のニーズが減った理由には、中国産の輸入増といった外的要因がありますが、一般家庭でお客などの外の人を部屋に人を入れないようになったことも要因の一つです。物を買い過ぎで、特に畳の部屋が物置に化してしまっているんですね。これでは、畳換えをしようとは思わないでしょう」

「また、住宅建築でもリフォームでも、以前は畳を中心に考えた京都(京間)式でしたが、現在では建物を中心に考えた建築様式になってしまっています。イグサから和紙、PP(ポリプロピレン)への転換も進んでいますしね。全国の畳屋さんにももっと頑張って欲しいとお思いますよ」と、岡さんは淡々と語られましたが、その表情には複雑な気持ちを滲ませておられました。

岡さんにはイグサの生産者として、やれるだけのことはやってきたという自負がありました。年々縮小するマーケットの中で、イグサ生産者でいることの難しさを肌に焼き付けながら、織り師としてのプライドを持ちつつ、さらにはイグサの二次製品づくりにも着手しました。しかし、岡さんの脳裏には、果たしてこの先何年続けているだろうかという切実な緊迫感に苛まれない日はありません。そんなある日、お父様の逝去を境に、岡さんの中で長らく眠っていた生産者としての初心が芽生えたのでした。

それは、お父様が亡くなった次の年、平成11年に父上が「夢枕に立った」ことで始まりました。岡さんはこれまでもなんとなく、堆肥代わりに菜の花の残菜を使うことで自然の農業が可能になり、その田んぼでできたお米がとても美味しいということを聞いて知ってはいました。夢枕で父上が「今年の菜の花は良うできた。今年はお米もい草良う出来るバイ」と岡さんに語りかけます。

菜の花を作ってないのに、なぜそんなことを?と訝る岡さんは、これはきっと「菜の花を作りなさい」ということなのかもしれないと思ったそうです。そして、その日から間もなくして、「母の実家の妹さんの息子が畝を作ったんだけれど、今、その田んぼが空いていて勿体ないという話になりました。聞けばそこは祖母の実家の近くでもあったんですね。それなら、そこに菜の花を植えてみようかということになった」のです。





初めて岡さんとお会いしたその席で見せていただいたのが、持参されたファイルに張られていたたくさんの菜の花畑の写真でした。岡さんが手がけた「ごろっとやっちろ菜の花畑」、そこに今年3月に600万本の菜の花が咲き誇りました。ファイルの写真はそのときの写真でした。岡さんの視野には2011年の九州新幹線の全面開通が入っています。3年後の春に新幹線が八代を通過するとき、車窓から見えるのは30haの「ごろっとやっちろ菜の花畑」に咲き誇る1200万本の菜の花の黄色い絨毯の一面です。東京ドーム6.4個分の菜の花畑です。岡さんの新たな挑戦は、既に9年目を迎えました。さらに3年後にそれは、「ごろっとやっちろ菜の花畑」として大きな花を咲かせるのです。

岡さんの5月30日付のブログで菜種の収穫が無事終わったことが報告されていました。この収穫から「菜種あぶら」が生まれ、「幻の菜の花ハチミツ」が生まれます。そしてその残菜は「菜の花米」の肥料として土に栄養を与えるのです。無駄が一切ない、循環型の農業の営みが、新幹線沿線を菜の花畑にするという大きな夢とつながっていることを知るとき、岡さんの汗と笑顔に本物の生産者の気概を見るのです。





岡 初義さんへのアクセスは次のアドレスで。
「ファミリーファーム OKA」(http://www2.ocn.ne.jp/~farm-oka/
「九州新幹線沿線は、菜の花畑」(http://blog.livedoor.jp/nanohana33/
「FMK EVENING JOURNAL」(http://www.fmk.fm/journal/06_10_11.html
  
Posted by エントワークリンケージ at 09:03
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2008年05月22日

緑のコンサル事業に挑む「植木町の植木屋」池富猛(22)

今年2/20に行われた商工会の交流会。この交流会では既に第14回のゲストにお迎えした広瀬生夫さんとお会いするご縁に恵まれました。その交流会の際、私に名刺交換を申し出てくれた方がいました。物腰が柔らかく、大変礼儀正しい方でした。お年を聞くとまだ29歳。にもかかわらず、事業歴は3年とのことで私の方が恐縮してしまいました。

という訳で、第22回目のゲストは、IGL(アイ・ジー・エル)代表の池富猛さん(29)です。池富さんの事業は、観葉植物・草花のリース、販売、管理からスペース・ガーデン・箱庭の制作、管理、ガーディング工事までと、いわば、緑のトータルコンサルティング事業を手がけられています。お話をうかがったのは、玉名合同庁舎のロビー。ここに池富さんの観葉植物が納められています。写真はそのツピタンサス。




池富さんは、長崎は佐世保のご出身。お父様が観葉植物の店を経営されており、早い時期からご自分も観葉植物でビジネスを行うことを決めていました。ただし、「兄がいて、家業は兄が継ぐだろうということと、親子といえども観葉植物に対する見方が違うということを実感して、独立することを考えていました」という独立精神に富んだ青年です。

地元の高校を卒業した池富さんは、経営者になるという明確な目的を持って、1997年、東京経済大学の経営学部に進学。卒業後の2002年1月にアメリカのミネソタ州にあるバラ造り農園にiiP(インターナショナル・インターンシップ・プログラム)を利用して研修生となります。ここで1年2ヶ月の間、修行の時間を過ごされました。

iiPとは、日本と世界の国々との国際交流を目的に設立された、米国国務省認定の団体です。iiPの本部は、米国ワシントン州シアトル。1979年10月、米国コロラド州政府教育庁により16名の日本人公立高校教師が教育視察団として招聘されたことからプログラムがスタート。現在,東京事務所を拠点とし、米国ワシントン州に米国事務所を持ち、国際的レベルで教育、文化、職業交流活動を展開。以来30年近くにわたり、15,000人以上の日本人が世界各地に派遣されているそうです。

アメリカへの旅立ちは池富さんにとってははじめての海外。アメリカで観葉植物を学ぶという本分を携え、英語に自信もないまま、降り立ったのはミネソタへのトランジットとなるイリノイ州のシカゴ空港でした。しかしそこで移民局のチェックに遭い、3時間程足止めを食ってしまうというハプニングに遭います。池富さんは片言の英語で懸命に説明しますが、研修生であることをなかなか理解してもらえず、ミネソタへの乗り継ぎの時間は迫っています。トランジット便のチケットを見せても担当官は余裕の様子。そのときの模様を池富さんは次のように語ってくれました。

移民局の控え室で待機していたら、「日本人なら日本語喋ってみろ」と英語で聞かれ、「こんにちは」なんて話していたら、部屋の後ろから日本語を話すことの出来るアメリカ人の方が来てて、色々と質問をされながら説明をし、通訳的なことをして頂いたおかげでホストの方にも連絡を取っていただき、乗り継ぎ便の案内、手荷物の引き渡し当をしていただいてなんとかミネソタ便に乗り込むことが出来ました。ですが、ビザは観光ビザを取得していたので、恐らくテロ発生後だった事から書類だけでは通らなかったのだと思います。

IIPに話したときにも「今まで語学不足でも書類だけで許可は下りてたのに、そんな事は一度も無かった」とのことでしたし。ついでに、滞在許可はその時に半年しか貰えずに、延長申請をした思い出があります。


ここで池富さんが過ごしたミネソタ州について見ておきましょう。アメリカでは、ハワイ州とアラスカ州を除いた隣接48州のなかで、最北端に位置する州。寒いことで有名で、「アメリカの冷蔵庫」の異名があるのがミネソタ州です。池富さんはなぜ、数あるアメリカの州の中で、この最北端の地を選んだのか?それは、北海道より以北に育つ北方地域の植物について学ぶためでした。




ミネソタ州(Minnesota MN)は、米国中西部の北、カナダ国境に接する州。州の東にはスペリオル湖があり、州の南北をミシシッピ川が流れている。東側はウィスコンシン州に、西側はノースダコタ州とサウスダコタ州に、南側はアイオワ州に接している。州都はセントポール市。ミシシッピ川を挟んだ隣の都市であるミネアポリス市と合わせて「ツインシティーズ」と呼ばれている。ミネソタの名前はダコタ族(アメリカ・インディアン)の「空の色に染まった水」を意味する言葉から取られている。

たどり着いたホストファミリーはイスラエルからの移民だったそうです。池富さんは与えられた時間を有効に使いたいという一身で、休みもろくに取らず働いたそうです。見かねたご主人が、たまには休んだらどうだと、休みをなかば強引に与えました。池富さんは休暇先で「ランドスケープ」式の造園事業を目にしますが、山一つを庭に見立てたその事業にアメリカの造園家の規模の大ききに驚いたそうです。池富さんが滞在したホストファミリーや休暇について、池富さんに直接語ってもらいます。




滞在先はミネソタ州のセントポールから車で30分走った所にある[30分と言っても、法定速度65マイル(時速100キロ近い)でしたから、それなりの距離はありました。]、ヘイスティングス(Hastings)という田舎町でした。1年ほど前にミネソタで橋の崩落事故がおきましたが、自分もよくトゥインシティーに行く時など通っていたので驚いてホストに電話したのを覚えています。

ホストは、サム・ケデム(Sam Kedem)さんで、ポーランド人で17歳年下の奥さんのレイチェルさん。娘さんが居るらしいのですが、日本の京都の大学で講師(生徒?)をされていたみたいで、一度もお会いしたことはありません。日本に帰ってから連絡をと思っていたのですが、シカゴの大学に行かれたということで行き違いになりました。

と同時に、スロバキアから、これはミネソタ独自の制度であるMAST(ミネソタ アグリカルチャー スチュウデント トレイニィ-)という農業訓練生制度を利用して、渡米してそこのホストにお世話になっていたマーティンと、ホストの奥様の甥っ子でウクライナ人のアレックスと五人で生活していて、国際色豊かな環境でした。

休暇は二回とって、一度目は両親を誘ってアメリカ東部のボストン、ニューヨーク、ワシントンなどをその当時自分が所有していた車で周遊しました。そこでは、唯の観光と世間見物で終わりました。二度目は、近くの農場に研修に来ていたポーランドとチェコの友人と一緒に西海岸に行き、ラスベガス空港で車を借り、サンフランシスコややロサンゼルス等を回りました。

ここで、国立公園に何ヶ所か行き、ヨセミテ国立公園のセコイア杉の巨木(直径3メートル以上)に迫力を受けました。箱根の縄文杉を越す木々を見たのはここだけです。後、ランドスケープガーデンを見たのは、サンディエゴの庭師の所です。自分の家が丘陵地の頂上にあり、目下の自然は先祖が木や花を植えて、自分はそれを守ってきたのだと言うことでした。


2003年4月、ミネソタでの研修を終え帰国した池富さんは、佐世保の実家に戻り、お父様の経営する会社で実務を学びました。観葉植物を中心にした緑のトータルコンサルティング事業へ向けて、学生時代からまさにまっしぐらの道のりです。そして、満を持して2005年3月にIGL(アイ・ジー・エル)を設立されます。26歳での開業でした。

開業地に選んだのは植木町。「実家が佐世保を拠点に長崎、佐賀、福岡と展開していたので、私は熊本以南のマーケットで勝負しようと思っていました」と考えていた、そんな矢先、最初に注文を貰ったのが玉名のお客様でした。そこで、玉名にも熊本にも近いということで植木町が有力候補に挙がったのでした。「植木の植木屋って面白いんじゃないか、ということもありました」。

そして、池富さんは昨年4月に結婚され、今年2月24日にはご長男・大稀(だいき)君がお生まれになりました。奥様は小学校の同級生で、二人が25歳のときに病院で偶然に再会。池富さんはその病院へ観葉植物を納めていました。奥様はその病院に入院されていたのです。そのとき池富さんは奥様を励ますつもりで「そのうち飯でも食いに行くか?」と声をかけて分かれました。

それから仕事に邁進する池富さんは、奥様に声をかけたことなどなかば忘れていた頃、奥様と街中で再び偶然に出会うことになります。そのとき奥様から「いつ、ご飯食べに行くの?」と言われたのをきっかけに交際が始まり、昨年、二人は結ばれることになりました。私は以前、「偶然という名の運命」という自作の曲を書いたことがありますが、このようなケースをそう呼んでいます。

池富さんは現在、600坪の敷地を自分の手で造成中です。そこに観葉植物栽培用のビニールハウスを三棟建てる計画です。2010年の完成を当面の目標にしているそうです。現在の顧客は80軒。これを熊本県内全域で150~200軒まで伸ばしたいというのが池富さんの当面の目標。「ここまではなんとか一人でやっていける。そこから先に、南九州への展開が見えてくるんです」とあくまで自然体の池富さんは語ります。

池富さんにいただいた資料に、観葉植物の効用には、汚染物質浄化作用、カビ・バクテリア等の繁殖抑制作用、マイナスイオン作用、視覚作用、香り作用、エッジ効果、アートセラピー・アグリセラピー、フラシーボ効果があると書かれています。池富さんの夢は、オフィスや個人宅の室内空間を植物で潤う庭として提供すること。「きれいな植物で空間を演出し、空気清浄にも役立ち、香りも楽しんでもらえたらと思っています」と池富さんは語ります。




この資料にはそれぞれの効用について詳しいレポートがありますが、その中で、空気の清浄と汚染物質の除去が実は絶妙な関係にあることが書かれています。アメリカ航空宇宙局(NASA)が宇宙船の換気について研究した折、植物が光合成を行う際、同時に室内の汚染物質を吸収するということがわかったというのです。これ以上の情報開示は池富さんの著作権を侵害することになりますので、興味のある方は直接池富さんにお問合せくださいね。

そして、池富さんはこれから植物に電気を通して大きくする研究を行いたいそうです。雷の後に植物が大きく元気に育つことがあるそうで、これはイオンの影響によるものではないかというのが、池富さんの仮説です。とにかく、池富さんはこの植物、庭づくりに関してまっしぐらに進まれています。しかも、その姿は実に自然体です。




私は池富さんに、創業から16年で東証一部上場を果したワタミ㈱の渡邉美樹社長の姿を見ます。渡邊さんとは今から20年前に求人広告の担当営業マンとしてお付き合いさせていただきました。「夢に日付を入れる」で有名な渡邊さんのポリシーはその頃から生きていて、16年後の上場も日付が入れられていました。池富さんは当面10年計画で事業を展開されていますが、きっと10年後のIGLは南九州一円のオフィスや個人宅を観葉植物で彩ってくれているのではないかと思います。

池富さん、IGLへのアクセスは下記まで。




IGL(アイ・ジー・エル/Indoor Green Leading)/緑のトータルコンサルティング
代表 池富 猛
〒861-0154 熊本県鹿本郡植木町大字那知
TEL(096)215-3210
FAX(096)215-3218

取材が終わって別れ際に、池富さんから思わぬプレゼントをいただきました。「ピレア グラウカ」というイラクサ科の植物です。池富さん、ありがとうございました。ちゃんと育ててますよ。


  
Posted by エントワークリンケージ at 10:18
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2008年04月20日

屈強の警部から保育所経営者への転進、友田秀一(21)

先日コミュニティ紙を眺めていたら、「働くお母さんを支援したい~24時間体制の保育施設~マザーハウス保育所」という紹介記事に目が留まりました。社長さんは行政書士・友田秀一と書かれていました。行政書士の方がなぜ、保育所経営に乗り出されたのかと、私は早速、4/2にこの保育所を直接訪ね、受付の方に友田社長への取材を申出ました。この日はあいにく友田さんが不在でしたので、資料だけ預けて保育所を後にしました。

一週間が経ったころ、取材を受けていただけるかどうか確認の連絡を入れたところ、取材は土曜日ならOKとの了解を得、4/12にお時間をいただきました。訪問前に改めてこのマザーハウス保育所のことをネットで検索してみて、私はちょっと腰が引けました。それは最初に見過ごしていた友田さんの経歴でした。人吉市出身、1955(昭和30)年4月生まれ。そして・・・



昭和49年4月3日付けで熊本県巡査を拝命し、平成19年3月に退職するまで、そのほとんどを熊本市内警察署、熊本県警察本部で暴力団捜査部門の刑事として従事。暴力団の対立抗争事件捜査や殺人事件をはじめ各種事件捜査に従事し、その後、暴力団の武器であるけん銃の捜査や資金源となる覚せい剤など麻薬捜査の経歴を持つ。警察在籍33年の内、捜査経歴28年の経験から裁判立証のための行動確認、尾行の技術は、他社に負けぬ自信を持つ。

在籍時、各種事件の功労として熊本県警察本部長賞詞6回、(うち、優秀警察官表彰を受賞、警察庁課長賞2回、九州管区警察公安部長賞2回、熊本県警察本部長賞誉18回、その他各部長賞、所属長賞数十回を受賞。退職時、警部に昇任し、熊本県警察本部長功績賞を受賞。平成19年5月、熊本県公安委員会第100186号、第200129号で警備員指導教育責任者資格を取得。同月行政書士資格取得し、友田行政書士事務所を開業。


車を運転しているときパトカーを発見しただけで萎縮してしまう小心者の私は、これまで「刑事」と名のつく方と接触したことがなく、しかも昨年までバリバリの暴力団捜査の警察官と聞けばおのずと緊張感が高まってしまいます。そんな訳で、恐れ多くも第21回目のゲストは、株式会社マザーハウス保育所・代表取締役で行政書士の友田秀一(53)さんです。

友田さんが警察官だったということは公務員だったということです。小心者の私ではありますが、友田さんが定年を前に退官されたことについて、その事情をどうしてもうかがいたくなるところです。経歴を見ればわかるように、友田さんの警察官としての実績には非の打ちどころがありません。恐る恐るうかがった友田さんの退職理由は、一言で言えば、組織の中で生きることの難しさでした。(スイマセン、お話の内容上、ここでは詳しく書けません)友田さんは退職される前年の10月には、上司の方に退職を申出られたそうです。しかし、それは随分も前に友田さんの中では決まっていたことでした。

退職後の友田さんの計画には行政書士としての仕事に加え、「安全アドバイザー」という新しい仕事の立ち上げが念頭にありました。これまでの刑事としての経験から、刑事事件に発展するようなケースで、被害者が事前に警察へ駆け込むまでにはかなりの時間を要していることがわかっていました。一方で家裁、弁護士などへの相談もなかなか敷居が高いと思われていたことも。友田さんはこの間を繋ぐことができれば、少しでも被害者を少なくする手伝いができる筈だと思われました。それが「安全アドバイザー」としての起業になります。

そして、満を持して昨年3月に惜しまれながら退職。ご家族はさぞや安心されたことだろうと思います。これまでの切った張ったの命がけの仕事から解放されたのは友田さんご本人だけでありません。ご家族こそ、これから初めての平穏な生活がその日から始まるのです。退職後の行政書士としての仕事は、これまでのお付き合いから企業の顧問契約の話もあり、順調なスタートでした。

友田さんが行政書士として独立して人脈を拡げておられたそんなある日、二人の方から友田さんに声がかけられました。株式会社阿蘇ナチュラル・Jファーム、代表取締役の森光臣さんと熊本県医師会・婦人の会・副会長で日本エジプト協会熊本会長の西郷澪子さんでした。お二人のお話は、既に設立されていた、シングルマザーを中心とした働く母親支援を目的とするテイクアウトキッチンの建て直しに一役かって欲しいというものでした。

聞けば、テイクアウトキッチン事業と保育事業を両立させたいということで始められたのですが、コスト問題などが大きく立ちふさがり、いったんテイクアウトキッチン事業を撤退し、保育事業に特化した形で再開することになったということでした。お二人からの要望は、友田さんにこの事業の経営責任者になってほしいというもの。友田さんはいきなり経営者になってくれと要請され、戸惑います。

ご家族に相談されたところ、大反対。よそ様の子供を預かるということの責任は、暴力団と対峙すること以上に重いものだということを切々と訴えられました。ご家族にとっては、やっと平穏な暮らしが始まると思っていた矢先だけに、ひと様の幼子を預かるという新たな緊張感は精神的に大きな負担です。友田さんにも家族の心配は理解できますし、むしろ自分自身が経営者としてやっていけるかどうかの不安の方が先立ちます。唯一の関係といえば、お姉さまが長年保育士であったということだけでした。

そこに第三の人物が現れます。九州柳河精機㈱会長で菊南運輸倉庫㈱会長の杉田貞治さんです。友田さんは杉田さんの話を聞きながら次第に就任への気持ちに傾いていきました。杉田さんから出る話は、退官後も友田さんが思い描いていた弱者への支援という理念に通じるものでした。そして、杉田さんからの次のことばが友田さんの心を打ちました。それは「見返りを求めない奉仕の心で取り組んでくれませんか」という一言でした。

「全国初となった慈恵病院の『こうのとりのゆりかご』がありますね。同じ熊本県民としてこの問題を重く受け止め、私たちにも何かできないかと考えたとき、働くお母さんの子育てを支援することを志して設立されたのがこの保育所です。私に声がかけられたのも何かの縁と、挑戦することを決めました」。

「子供は悪さをするために生まれてくるのではありませんね。私は、長年暴力団の連中と接してきましたが、彼らももとを糾せば赤ん坊だったわけで、幼児教育に遡ることができます。ということは、お母さんが子供に対して愛情を惜しみなく注げるような環境づくりのお手伝いをすること、つまり母親支援をすることが健全な子育てにとって最も有効なのだと思ったわけです」。

そして、今年の1月、友田さんは(株)マザーハウス保育所の代表取締役に就任されました。年中無休の24時間運営体制。急な用事で子供を預けなければならなくなったといった場合にも対応できといいます。体験入所も随時受け入れ可能。何しろ24時間体制です。その施設の最高責任者が友田さんです。それだけに就任当初の友田さんは寝付かれなかったそうです。



0歳児から小学生までの預かりと保育。料金は1日預かり(8時間)1600円から、昼夜の月決め2万円からで、年齢によって変わるシステム。これから同保育所では、手作り給食などを通じて食育にも重点を置いていく予定。これは、ドイツ国際食肉加工見本市( 2002)における国際コンクールで数々の金賞を受賞している株式会社阿蘇ナチュラル・Jファームが責任を持って提供していかれます。また、将来的には、英語、音楽を取り入れた情操教育も導入する計画とのこと。

マザーハウス保育所は、旧ブライダルマリエビル全フロア(1~6階)を活用しています。各フロアの床面積は約80㎡で、1回は受付及び0歳児用託児スペース、2・4階はプレールーム、3階は厨房と食堂、5階は保健室とプレールーム、6階は会議室及び職員事務室と、とにかく広いスペースです。現在は60名近くの契約ですが、このキャパシティからすればまだまだ余力があります。

さらに保育士の方々も募集中です。5:00~12:00、12:00~20:00のいずれかで働ける方はチャレンジしてみてはいかがでしょうか?現在は7名の方が勤務されています。「保育園自体が今年1月からのスタートですから、職場としての環境や制度をこれから作っていくことにやりがいを感じられる人なら積極的に採用したい」と友田さんは話しておられました。

今回のインタヴューでは、友田さんの前職時代の武勇伝も数多くお聞きしましたが、残念ながらここでご紹介することはできません。長年暴力団と対峙されてきた警察官としての屈強さを感じ入りながら、(株)マザーハウス保育所の社長としての友田さんの印象は、実に穏やかで腰の低い方。しかし、シングルマザーをはじめ、弱者を守るという友田さんのミッションは今も変わらずに続いているのでした。


㈱マザーハウス保育所
〒860-0803
熊本市新市街13-19
TEL&FAX 096-351-6400
http://www.tomokk.com/24hhoiku.html
  
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2008年04月15日

からだから人生の看護へ、FP広瀬美貴子の挑戦(20)

第20回目のゲストは、㈱Fineプロデュース代表取締役・広瀬美貴子さん。広瀬さんのことはFMKに出演されていた番組を聞いて知りました。そのとき、子供たちに金銭教育、キャリア教育を施すことの重要性について、「世の中のすべてにおける分野で、自分で気づき・考えて・行動する教育。世の中のことを伝える教育が必要で、学校と家庭と地域との連携、家庭が社会へ巣立つための経験の場となるような親子のかかわりやコミュニケーションが大切」だという思いを語っておられたのが印象的でした。

いつかはお会いしたいなと思っていたころ、第17回目のゲスト・西田ミワさんにお話を伺った際、西田さんから尊敬する女性としてご紹介を受けたのがその広瀬さんでした。また、そのときにいただいた「夢を形に・起業家たちの人間力」という本に、前回の江浦誠さんと一緒に執筆陣の一人として登場されていたのが広瀬さんでした。不思議なご縁です。そして、お会いする前にHPや本などでご経歴を拝見してみて、その縦横無尽な活躍ぶりに目を見張ったのでした。



広瀬さんの現在の肩書きは、次のようになっています。「ファイナンシャル・プランナー」、「金融知力普及協会認定インストラクター」、「キャリアカウンセラー(JCDA認定)」、「産業カウンセラー」、「FP協会熊本県支部幹事」、「熊本県金融広報アドバイザー」。掲載記事を読むと、広瀬さんの職業人としてのスタートは看護師となっていました。一見すると全く畑違いのこれらの肩書きがいつ、どんな経緯で移り変わっていったのか、関心が高まったのでした。

広瀬さんの詳しいご経歴、事業の内容についてはリンクを張ったHPやパブリシティなどで後程確認していただくとして、私の興味は、看護師であった広瀬さんがファイナンシャル・プランナーに転進するまでの経緯と、これからどんな方向へ進まれようとしていらっしゃるのかということです。今回、学校での講演やワークショップで連日ご多忙の中の一時間をいただきお話をいただきました。

広瀬さんは高校卒業を前にご両親から県立大学への進学を薦められますが、心中秘かに「東京に行きたい」という思いを募らせていた広瀬さんは、心臓病で長く苦しんだお兄様へとの関わりと、東京にあって全寮制、奨学金支給という魅力もあいまって看護師を志すことに決めます。品川区五反田にある関東逓信病院(現・NTT東日本関東病院)附属高等看護学院への受験を願い出て、ご両親の承諾を得られました。そして、13倍の難関を突破し見事に入学を果されます。



25年前の当時、関東逓信(ていしん)病院は日本で最先端のシステムを導入していて、すでにコンピュータ化もかなり進んでいたそうです。また、授業では講師陣も優秀な先生方に学び、看護も医療チームの一員としての役割を実践で学ばれました。学院卒業後は、看護師として勤務早々ながらも9日間の休暇が与えられ、この休暇を使って海外旅行を経験されたりと、申し分のない社会人としてのスタートでした。折りしも二年後、小学校の同級生だった彼が大学生として上京して来て再会。ここで大人の恋も芽生えます。このときの大学生は、後のご主人です。

しかしながら、この世の春は、咲き誇る桜の花が瞬く間に散りゆくように、そう長くは続きませんでした。お父様が突然倒れられて、熊本へ帰ることを余儀なくされたのです。憧れの東京での暮らしはあえなく三年間で幕引きとなりました。同時に、彼との都合四年間の遠距離恋愛の始まりでもありました。後ろ髪を惹かれる思いで熊本に戻った広瀬さんは、熊本赤十字病院に就職されます。

熊本赤十字病院といえば県内でも屈指の病院ですが、当時でも県内では先端の病院であったはずです。しかしながら、広瀬さんが東京で勤めていたのは日本で最先端の病院でした。この二つの病院の医療体制の大きな隔たりを前に広瀬さんは愕然とします。東京では看護に専念できた日々でしたが、熊本では休みを取ることもままならい忙しさに加え、看護以外の事務作業が追い討ちをかけました。(あくまで当時の話です)広瀬さんの中で、カルチャーショックと看護師が医療チームとして認めらないことへのストレス、そして体力的な消耗が、看護師としての希望を次第に失わせていきました。

「自分にとって看護師という職業は一生続けていける仕事なのだろうかという疑問がわいたんですね」。この間、広瀬さんの中で、お父様が40歳で起業されていたこともあって、組織の中で仕事をするよりも、自分で起業したいという思いが芽生えだしました。「漠然とでしたが、私も40までに起業をしたいなと思うようになったんです」と。

そんな鬱屈とした日々の中で、意中の彼が熊本の銀行に就職を果し、戻って来ました。長かった遠距離恋愛が一気に燃え上がり、平成2年2月に結婚。広瀬さんは、ご主人の意向もあって結婚退職の道を選ばれます。その後三人の子宝に恵まれ、専業主婦の生活を過ごされますが、三度目の出産後にご自分の今後の人生に目を向けられるようになった広瀬さんは、簿記とコンピュータの勉強を始められます。

結婚から6年後、広瀬さんは、とある小さな株式会社に勤めることになります。そこで、総務・経理・労務を担当する中、社内の若者たちの多重債務状況とそのかかわりを通して、金銭教育の必要性を強く意識されるようになりました。元看護師としての職業的意識が、心の医療ともいうべきカウンセラーへと変質して芽生えたのがこの時期でした。

「『金銭教育』をするためにお金のプロになりたいと思ったときに知ったのがファイナンシャル・プランナーだったんです」。この資格を取るための勉強の時間を作るために仕事もパートに切り換え、車を使う営業の仕事をするようになられます。「遠距離を走る仕事でしたが、私にとっては車の中でテープを聴きながら勉強できたいい時間でした」と楽しい思い出を話すように語られましたが、夜は子育てが終わって11時頃まで、朝は4時起きという五ヶ月間に及ぶ勉強を続けておられました。

「夜11時頃に寝ることが質の良い睡眠になるというので、それなら4時起きでもいけるかなって思ってやってました」。この成果あって、念願のファイナンシャル・プランナーの資格を取得。次に、自分が伝えたいことをきちんと相手に伝える技術の必要性を感じた広瀬さんは、「NPO法人金融知力普及協会認定インストラクター」養成講座も受講をしました。「自らの活動の中で、セミナーを開催するときに必要となる、効果的に話す方法や、アイコンタクトのとりかた、質問の投げかけ方やシナリオの組み立て方などを学ぶことができました」。目標に向かって一気に邁進する広瀬さんの行動力に脱帽です。

しかし取得直後の活動は思うようには進みませんでした。「金銭教育の活動をしたくても無名だったため、活動の場がありませんでした」。そんな中、初めは、自分がやりたいと思っている方向性と同じ内容について開催しているセミナーやワークショップに手伝いとして参加したり、チラシ配布やDM発送などきっかけを掴むための地道な努力が続きます。

そんな中、九州の金銭教育では草分け的存在の方のセミナーに参加したことがきっかけでその方のサポートをするようになられます。その後、講師を任されるようになり一人で鹿児島や沖縄に飛び回る日々を過ごされます。そして、資格取得から1年半ほど過ぎたころ、初めて訪れたチャンスが、お子さんが通う学校のPTA主催の「金銭教育」のセミナーでした。

そして、2004年12月、念願の自主開催でのワークショップを企画・開催。以降ワークショップを続け、その都度プレスリリース(ニュースリリース)をいろいろなメディアに送ったところ、後にメディアからの取材につながり、新聞に取り上げてもらうなど、広瀬さんの名前と活動が少しずつ認知されるようになりました。9月に投げ込んだDMが半年後のレスポンスに繋がりました。

この雌伏の日々の活動が、厳しい寒さに耐えた桜の蕾が時期を得て力強い花を咲かせるように、広瀬さんのもとへ様々なオファーを舞い込ませました。「市の登録講師となり、県の金融広報委員会からの依頼で金融広報アドバイザーになり、市の総合女性センター、公民館などで講師をさせていただくなど、活動の場が拡がりました」と。



広瀬さんの活動実績を見ると、学校関係のセミナーでの講演が実に多いのですが、ここでの話は次ぎの信念に根ざした内容になっています。

子供たちが手にするお小遣いはどこから来るのか?それはもちろん、ご両親の収入からです。言いかえればご両親の『稼ぎ』の中からです。この『稼ぐ』ことの意味を問いかけなければいけないと思っているんです。つまり、金銭教育とキャリア教育は車の両輪なんですね」。

現在、広瀬さんの視線は学生から社会人へと広がっています。「より良く働く人のための支援は、結果的に企業収益の向上につながるんです。ストレスを抱えて保健室で過ごしてきた子供たちが、将来社会人になったときにストレスを発散する場がない。そんな場を提供していきたいんですね。企業へのカウンセリングと人材教育のアウトソーシングを目指しています」。

広瀬さんから「EAP」という言葉を聞きました。「Employee Assistance Program」の略で、「従業員のメンタルヘルス対策支援。社員が抱える職場や家族、健康に関する悩みへの相談を受け付ける体制作りのこと。生産性の向上や優秀な人材の離職防止といった効果がある」手法です。

EAPの具体的な活動内容には、(1)社員の啓もう、(2)電話や電子メール、対面によるカウンセリング、(3)部下との接し方やストレス除去法の教育研修、(4)専門医への紹介などがあります。上司が問題意識のない社員を相談に行くように促したり、気軽に社員が相談できる体制作りまで実施する点が特徴。EAPを導入すれば、社員の欠勤や医療費の削減につながります。さらに、社員の悩みを無くし快適に働ける職場作りをすることで、生産性を向上したり、優秀な人材の流出を阻止するといった効果も期待できます。(日経情報ストラテジー2002/10/29)

実際、カウンセリングの資格を持ちながら、この資格を活かせない方々が少なくないといいます。広瀬さんの目標は、県内の企業経営者に、従業員の方々のストレスを解消することで結果的に収益につながるということを理解してもらい、こういったソフトへの投資を活発化させること。そうすることで潜在カウンセラーたちの活躍の場を提供することにもつながるという狙いです。

さらに、広瀬さんの視線には企業の資金調達の支援活動も入っています。「現在、公的機関による助成金をはじめ、経済産業省や中小企業基盤機構などの様々な機関、財団等から出されているもので、実は3,000種類位あるんですね。ただこうした制度について余りにも情報不足です。特に中小企業にとっては返さなくても良い資金である助成金の存在は貴重な財源です。もちろん所定の審査はありますが、内容によっては数千万~億単位の助成金を受けることも可能なんです。私たちはこの助成金獲得への書類作成などのサポートができます」。

三年後の広瀬さんはどうなっているのかをご本人に尋ねてみました。「仕事をとってくるのが経営者の本質だとしたら、私はそうした経営者にはなれないと思います。自分の手や言葉で直接関わって行きたいんです。そういった意味では、三年後も今と同じ。それに加えてコーディネーターをやっているかもしれません。カウンセリングのアウトソーシングを実現したいんです」。

私が広瀬さんを知ったFMKの番組で司会者が広瀬さんに「社会の看護師みたいですね」と言ったことが、「ちょっぴり嬉しかったですね」と話す広瀬さん。冒頭で私は、「看護師であった広瀬さんがファイナンシャル・プランナーに転進するまでの経緯」と書きましたが、広瀬さんにとってそれは「転進」ではなく、「階段を上る」ことだったんだなと思うようになりました。それは、「からだの健康」から「こころの健康」の看護への夢の途中なのだと思うようになりました。

最後に「県知事になれと言われたら何から手をつけたいですか?」と唐突な質問を投げかけてみました。「んー、やりたいことはたくさんありますが・・・。まずは、中学校教育の現場改革ですね。社会につながった教育改革。キャリア教育のできる先生を増やしたいですね。金銭教育、キャリア教育、法教育、食教育、環境教育などは産業界や法曹界、専門家などとの交流が大切です。これまでの教育界の垣根を取っ払って、社会に繋がった教育を実現したいです」と、そのお応えには全く迷いがありませんでした。



週末は阿久根、都城への講演活動に向かうという広瀬さん。今後の更なるご活躍に期待します。そして、蒲島新知事に、広瀬美貴子さんを政策ブレーンとして採用されることをお奨めして、終わります。

<株式会社Fineプロデュースの理念>
Fineな人生  働く人々に、イキイキとした自分らしい仕事人生をプロデュース
Fineな企業  がんばる企業に、人的資源・資金・信用力アップをプロデュース
Fineな社会  働く人と企業のFineで、より良い社会の実現を目指す!

株式会社Fineプロデュース 広瀬 美貴子
〒860-0085 熊本市高平2-25-45日進ビル302号
Tel 096-346-0611 Fax 096-346-0610
E-mail info@fine-produce.co.jp

All Aboutメールマガジン「フォーエル」連載記事「話題のおシゴトに就きたい」
http://forl.allabout.co.jp/L/popularjob/060503/lr04305/  
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2008年04月08日

天草に雇用創出を!FP・江浦誠(19)の挑戦

先日、第17回のゲストにお迎えした西田ミワさんからいただいた「夢を形に・起業家たちの人間力」という本を読んでいたら、この本の執筆者のお一人の文章に、「生まれ育ったふるさと天草に雇用創出をする!」という力強いタイトルを見つけました。その文章を読んでみると、サラリーマン時代から独立を夢見ながらも、起業するまでの悶々とした思いとその葛藤を淡々と綴りつつ、故郷・天草に対する思いが溢れていました。



これはもっと話を聞かずにはいられないと、自称「夢追いインタヴュワー」の私はさっそく江浦さんにコンタクトを取って、ご多忙中をぬって時間を割いていただきました。そんな訳で、第19回のゲストはFP江浦事務所のファイナンシャルプランナー・江浦誠さん(47)です。辛島町にあるオフィスでお話を伺いました。外は雨模様でしたが、爽やかに応対していただきました。



江浦さんは、天草町高浜の生まれ。天草西高卒業後、現・学園大に入学されます。学生時代にアルバイトをしていた求人誌発行会社にそのまま就職された後、広告代理店、不動産会社を経て、平成8年に友人が立ち上げた生保代理店に参画されました。この代理店は、保険業法改正を見据えて立ち上げた、全国でも画期的な、30数社取扱の乗合代理店だったそうです。創業から丸3年間、最後の一年は熊本の責任者として勤務された後、別法人で組織された代理店に勤められ、生保代理店業10年を迎えた平成18年7月21日に満を持して独立されました。

江浦さんには学生時代から抱いていた二つの思いがありました。「求人誌の営業ではお客様の経営者と商談することが多いのですが、情熱あるお話しを聞いているうちに自分も経営者になりたいと思ったんです」というおぼろ気ながらの「思い」。そして、「学生時代に帰省したとく、高校時代の後輩がとあるきっかけで縫製会社を起こして立派に地元で雇用貢献をしていたことを知ったんですね。自分もいずれは天草の雇用創出に何らかの貢献をしたいと思っていましたが、彼は既に地に足がついた形で実現していて、これも立派な貢献なんだなと気づいたんです」というなんらかの形での貢献をという「思い」。

とは言え、「いつかは起業したい」、そして、「いつかは天草への雇用創出に貢献したい」という漠然とした思いは、なかなか具体的な活動には至らなかった江浦さんでした。しかし、目の前の仕事をこなしながらもこの間に、テープが伸びるほど聞きまくったという自己啓発テープの一つがありました。それは、竹内日祥という住職の「社長・経営幹部のための特別講話乱世を生き抜くリーダーの条件」。

この収録時間、二時間というテープの中の一節が江浦さんの潜在意識に入り込んでいたのでした。その一節は、「まず、旗を揚げること。旗を揚げることによって、周りに知らしめることが肝要だ」という内容だったそうです。私は不勉強で、この竹内日祥上人なる方を存じ上げませんでしたので、ちっと調べてみました。



竹内日祥上人;1947年、神戸市に生まれる、立正大学仏教学部卒業後、日蓮宗妙見閣寺住職となる。上人の講演は、仏教思想を 現代に即応した表現で、独特な弁舌と明解な切れ味の良い論理に乗せて、さわやかな中にちょっぴり深刻な上人の生きざまをのぞかせて、感動を与えると定評があります。特に上人は経営トップの指導と企業幹部の人材育成に強烈な影響を与え、大変革時代の方向と、戦略の原点を的確に示し、混迷の乱世を勝ち抜く価値観の集団的転換(パラダイム・シフト)を徹底的に解明。年間講演回数は、200回に及び、すべての収益は国際永久平和祈念祭典の資金の一部に充てられています。

その後、生保代理店としての仕事は決して順調とは言えず、江浦さんの起業への思いはその一歩を踏み出すことを躊躇させていました。そんな折、ある先輩からの質問が江浦さんの悶々とする思いに火をつけました。それは、これからの人生においての「60歳からの引き算」です。江浦さんの中で15年もあると思っていたその「時間」は、実質的な稼働時間で言えば、その1/3しかなかったことに気づいたのです。「好きな時に好きなことを好きなだけやる」には今しかないと、このとき江浦さんの起業家としてのエンジンは回転し始めました。

そして運命が動き出しました。先述の「夢を形に・起業家たちの人間力」への執筆依頼の話が本書の編著者である中尾吉宏さんから舞い込んだのです。起業して、ある意味さっぱりした気持ちになっていた江浦さんは、この話を受けてから原稿を苦もなく書き始め、締め切りのかなり前に原稿を仕上げたそうです。一方、他の執筆者の方々が締め切りを過ぎてもなかなか仕上がらない中、中尾さんが来熊されるという機会がありました。そこで江浦さんは原稿では触れなかった天草への思いを語ったそうです。すると中尾さんは、「この前の原稿、没にします」と一言。江浦さんは焦りました。その後、中尾さんから継いで出た言葉は「その話を書きましょうよ」と。

書き直した原稿には「天草で仕事をしよう、天草に雇用を創出しよう、天草を盛り上げよう」という思いが綴られることになりました。そして、そこでこの思いを形にして公然とその旗を揚げることにしました。それが、「天草倶楽部」の設立になりました。記念すべき第一回は今年1月24日に行われました。この第一回には前述の西田ミワさんも途中から出席されていて、そのときの模様を次のように書いておられます。



講師の方も含め、8名でスタートした茶話会では天草の現状…雇用、過疎化、小児科・産婦人科の圧倒的不足高齢化(若者の流出)、シャッター街などの現状報告がありこれらをどう食い止めたらいいのか地域資源は何かなどが話題の中心になりました。(じかに聞くとニュースでは得られない切実さが伝わってきます)

ある参加者は、ママさんのネットワークを強化したとえば、病院・子育て情報をITを活用し共有する活動をすでにはじめておられ、ある参加者は、他の地域での成功事例を紹介され、ある参加者は、「とにかく、なにをどうお手伝いできるかわからないけど、天草の魅力を発信していきたい。」と熱く語っておられました。

西田からは、世の中の傾向や興味深い慣例など事例を紹介。参加者の中には、ユニークなキャラと活動に注目があつまり質問攻めになる一幕もあり、会場は大盛り上がり(笑)厳しい現状のなかでも、良い風が吹きそうな予感がします。これから3ヶ月に1回ほどのスパンで天草倶楽部交流会は実施されるそう。私は熊本市内在住ではありますが、同じ熊本県民ですし、彼等の活動のお手伝いしていきたいと思ってます。(http://tabineko.otemo-yan.net/e65557.html


江浦さんは、この「天草倶楽部」を立ち上げてみて、わかったことがあるといいます。それは、天草を再生させたいと活動されている方々はたくさんいて、組織されたグループ、コミュニティも決して少なくないということでした。「私は、この倶楽部が先頭に立ってこれらの方々を引っ張りたいという気持ちはさらさらありません。この倶楽部がそれぞれの活動にどう繋がっていけるのか、これからそれを模索していきたいと思っています」と、謙虚に語られました。

また、「この倶楽部を立ち上げて、いろんなところで天草に対する思いを語っていくうちに、聞いて頂く方々の食指に触れるのでしょうか、相手の方も熱く語ってくださる方が多いんですね。先日もお客様との商談の後この話になって、お客様は地元への思いを二時間も語られました。お客様は天草の方ではありませんでしたが、今後もこの倶楽部を応援していただけるということでした」。

江浦さんの当面の雇用創出への活動は、自らが地元の企業を創出するということではなく、まず、この「天草倶楽部」を通じて参加者への知的啓発とビジネス・マッチングの模索にあります。「目下、手弁当での開催だけに、講師陣の方々にはボランティアでお願いせざるを得ません」とのこと。

天草へ熱い思いをお持ちのコンサルタントやご専門の方、あるいは、そんな方をご存知の方は江浦さんへのご紹介をお願いします。第二回目の「天草倶楽部」は今月17日(木)に開催されます。天草にお住まいの方、天草ご出身の方、あるいは天草の発展に力を貸したいという方は、ふるってご参加ください。

<第二回 天草倶楽部」>
場所;天草宝島国際交流会館ポルト
住所;天草市中央新町15-7 旧ニチイ跡
時間;受付開始/13:15、開会/13:30
勉強会/13:35~14:35、交流会/14:40~15:40
会費;ワンコイン500円(飲み物込み)

勉強会講師:田中美智子さん(久留米でご活躍の「営業プロデューサー」)
HP:http://of-tanaka.com/
ファーマーズスタジオ;http://far-s.com/

主催/天草倶楽部
連絡先/096-367-9276
090-4343-7707(江浦誠)
「天草倶楽部コミュ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=2887514

上記の他の江浦さんへのアクセスは下記です。
E-mail;meuraster@gmail.com
URL;http://blog.goo.ne.jp/9sugo/http://sugo.otemo-yan.net/  
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2008年03月18日

実と虚の空間を回遊するドルフィンワークス・西田ミワ(17)

全国商工会議所女性会連合会が、平成14年に創設した「女性起業家大賞」という顕彰があります。同賞は、「創業・経営革新に果敢に取り組んでいる女性起業家を顕彰し応援することにより、産業界の男女共同参画社会の実現を推進し、わが国経済の発展に資することを目的とするもの」だそうです。この顕彰は、各地の商工会から推薦された応募企業から選出されるようです。この熊本商工会議所女性会が推薦する賞として「輝女(テルージョ)」があります。

昨年、その「輝女(テルージョ)」に輝いたお一人にドルフィンワークス代表の西田ミワさんがいらっしゃいました。他に三人の女性経営者がいらっしゃいますが、事業面から個人的に関心があった西田さんにインタヴュー依頼をさせていただき、今回お話をうかがいました。という訳で第17回目のゲストは、「コンテンツディレクター/プランナー」、「財団法人生涯学習開発財団認定コーチ」として活躍されている西田ミワさんです。



実は今回のインタヴューを終えて、ちょっと困りました。西田さんにはいろんなメディアからの取材が多く、私があえてここで書くことはないんじゃないかと思うほどだったからです。しかも、取材後、この記事を書くにあたって西田さんからいただいた資料を読みながら何気なくHPをチェックするといきなり、「エントワークリンケージ 後藤愼一様よりネット取材いただくことになりました。どんな視点で取り上げてくださるのか楽しみです^^のちほどご報告いたします」と書かれているではありませんか。暗黙のプレッシャーです。

とは言え、お忙しい中でせっかく頂いた時間ですので、西田さんご自身、今後の事業についてうかがったことを私なりの解釈で皆さんにお伝えしたいと思います。第一稿を西田さんにメールで送ったところ、前述の「暗黙のプレッシャー」について、西田さんから「脳化学的に申しますと、この『ピュアプレッシャー』は”さらなる向上と幸福感を誘発するドーパミンを大量放出”するそうで…」という励ましをいただきました。それでは本題に入ります。



2001年7月の創業以来、なぜ西田さんがこれほど注目を浴びておられるのか?私の西田さんに対する興味はこの点にありました。取材を終えてその答えが理解できたように思います。実は、西田さんに数多くのメディアから取材依頼が寄せられるようになったのは、起業から半年間、売上ゼロという苦境に喘いだ西田さんが、そこから脱するために暗中模索の中でたどり着いて実行した「顔を売る」という行動の賜物だったことがわかりました。

「私と同じように起業した人、起業を目指している人、様々な異業種、同業種の交流会に顔を出し、団体のリーダーやお世話係も積極的に引き受けました」(商工ひのくに)と西田さんは語っています。もちろん西田さんが手がけられようとした事業そのものにメディアが関心を示さなければ、いくら顔を売っても連鎖はしませんね。しかし、事業そのものがどんなにインパクトのあるものでも、それが確実に歩を進めていなければメディアはフォローしてくれません。

西田さんの何がメディアの関心を呼んだのかをもう少し掘り下げてみようと、まず、西田さんがどのようにして起業するに至ったか、そして、西田ミワという女性がどういう方なのかを知るために、起業前のことについて振り返っていただきました。

高校を卒業した西田さんは、ご実家でアパート経営されていることもあって、建築に興味を抱きながら、とあるゼネコンに入社されます。そして、不動産販売に携わる中で宅建主任の資格を取得され、建築業界、不動産業界でのキャリアを積んでいかれました。この辺までの西田さんは業界では一般に見受けられるOLの一人でした。

仕事にも慣れた頃から、西田さんの中で「私自身、果たして世の中でどのくらい通用するのだろう?」という単純明快な疑問がわいてきました。さらにそれが「そもそも、自分とはいったい何者なのか?」という命題に突き当たっていきます。西田さんは23歳のとき、突然思い立って「自分探しの旅」のためにアメリカに旅立ちました。宿だけを確保しながらの、2週間にわたるアメリカの旅です。しかし結局、アメリカでは何も見つけることはできませんでした。

その後熊本に戻った西田さんは、ハウスメーカーで建売住宅の営業職をはじめに様々な仕事を経験されます。数えるとそれは20種類以上にも及ぶといいます。ときには二足・三足のわらじを履いたこともあるそうです。とにかく自分にあった仕事に出会うために「OL時代は原因を外に見つけるのが得意で、気に入らなければ即転職」という「ジョブ・サーフィン」とも言える状況でした。西田さんの「自分探し」はまだ続いていました。

そこへ運命は、西田さんが求める「ほんとの自分」ではなく、「一生のパートナー」を巡り会わせることにしました。この運命の波に乗って28歳で結婚され、翌年ご長女を出産されます。一見順調な新婚生活でした。ところが、家庭に納まった西田さんは社会的な接点を失ったような気持ちから、一時、育児ノイローゼ状態に陥ってしまいます。

この閉塞感の捌け口として西田さんは、当時立ち上がったばかりのメールマガジンに思いのたけをぶつけ始めました。今から10年位前のことですから、今ほどインターネットは盛んではありませんでしたが、このメルマガがなんと1,400名の読者の共感を呼んだのでした。今の西田さんの仕事の出発点はここから生まれたのでした。

以来、西田さんは家庭に加えて「自分の仮の居場所」を見つけて、まずはネット社会を泳ぎまわることになります。ネットサーフィンをしながら、現在の環境の中で再就職の道が固く閉ざされていることもひしひしと感じていました。一方で、メルマガの読者にはいろんな人がいて、彼らから情報提供を受けたり、相談に応えたりする中で、今目の前にあるパソコンとインターネットでなんらかのサービス提供ができるのではないかと考え、西田さんはWEBデザーナーとして独り立ちすることを決意します。




そして、起業。しかし前述のように半年間は全く仕事が入ってきません。西田さんはそんな起業後の苦しみの中からもうひとつ「居場所」について思い至ります。「一人でやってみて初めて、自分にはこれまで会社という後ろ盾があったことが自覚できたんです。そして、そのありがたさに気づいたんです」と。実社会の海は西田さんにとって、ネット社会ほど自由な回遊空間ではありませんでしたが、冒頭の積極的な人脈づくりが少しずつ実っていきました。

「Webデザイナーとして開業はしましたが、何しろ独学ですから、当初はお客様にご協力いただきながら必死で制作していました。そして、やればやるほどその都度、自分に欠けているものがわかってくるんですね。その発見が喜びだったんです。確かに苦労はしましたが、お客様が喜ぶ顔が見たいという気持ちの方が勝っていたと思います」と、西田さんはその当時の思いを語ります。

これまでずっと探していた「自分」が直接的にではなく、結婚、出産、育児というプロセスを経てようやく西田さんの目の前に現われたのです。前述の「やればやるほどその都度、自分に欠けているものがわかってくるんですね。その発見が喜びだったんです」と語る西田さんの言葉とあわせてみると、結局、探している「自分」は、もともと西田さんの中にあったことがわかります。そして「仮の自分の居場所」が「ほんとの自分の居場所」へと変わっていくのです。

西田さんのこんな「自分探し」の話を聞きながら、私は、あるブログの読者同士である武闘派銀行マン「のんた」さんのブログ「潰してたまるか!お前の会社」の次のような記事のことを思い出していました。(http://ameblo.jp/k-hotline/entry-10080027975.html

自分の取り得や才能を、最も簡単に見つけられる方法があります。それは、起業することです。逆に言えば、起業しない限り、あなたの本当の才能を見つけ出すことは出来ません。すでに起業して苦労した人は分かると思いますが、人というものは、一人ぼっちになって初めて、自分自身の力量が分かります。「自分に何が出来るのか」ということを客観視できます。

会社にいる限りは、基本的に温室育ちであることに大差ありません。そんな環境で、いくら自分に何が出来るかを考えてみたところで、客観視することなど不可能です。資格を持っているから大丈夫だろう、営業が得意だから大丈夫だろうという甘い考えは、起業したとたんに吹き飛んでしまいます。そして、最終的には、「自分は何のために生まれてきたのか」ということが分かります。そこから先は、また自分で決めるのです。

私自身がそうであったように、起業して自分が得意だと思っていたことに力を注いだ結果、「こんなはずじゃなかった」と感じることなど日常茶飯事です。好きだと思って始めたのに、実は好きではなかったということがあってもいいのです。そうやって、少しずつ自分を分かっていくことが、起業する喜びでもあるのです。あなたが現在いるところは、世界で一番いいところでもなければ、悪いところでもありません。今がベストだと思っても、外に出るともっといいところがあったという発見をし、世間の広さを知って喜びを知るのです。

自分の取り得を知ってから起業するのではありません。起業することで、自分の取り得を見つけることができるのです。


今の西田さんの本業は、「DOLPHIN WORKS」における、インターネットコンテンツの企画・制作、ブログ・メルマガの執筆代行、そして昨年立ち上げた「STAND UP」における次世代リーダーのための起業家育成活動、ワークショップ等企画運営、加えて共同出版にまでと多岐に及んでいます。更に4月1日からは「STAND UP」の弟分的団体、社会起業家とフリーランスのための情報発信局「SOHOフォレスト」を稼働されるそうです。これは、熊本県を拠点に活動するフリーランサー、社会起業家、個人事業主のシンクタンクとしての位置づけで、交流の場、ビジネスマッチングの場としての受け皿になるようです。

「高度なコミュニケーション能力と、地域やネットワークの媒介としての役目を担う会社でありたい」という願いをこめたという「DOLPHIN WORKS(ドルフィンワークス)」。この屋号は更に、「ボスを目ざすサメとリーダーを目ざすイルカ―上司・同僚・部下から評価されるイルカ型ビジネスのすすめ」(単行本))という本に書かれた次ぎの内容にインスパイアされたものでもあるそうです。




社会で働く人は、男女問わず、サメ(海の殺し屋)、グッピー(自己中心主義者)、イルカ(高い知性を持って、和を大切にする人)に分けられる。それぞれどのようにつきあえばよいか、アメリカのビジネスで成功している女性200人のインタビューを基に構成されたハウツーブック。//内容(「BOOK」データベースより)


そして、女性鉱山労働者になったシングルマザーが、男性社会の中で耐え難いセクシャル・ハラスメントを受け、立ち上がるまでを実話に基づいて描いたシャーリーズ・セロン主演の「スタンド・アップ」からインスピレーションを得たという「STAND UP」。西田さんは「この受け皿を『スター誕生』」に場にしたいんです」と語ってくれました。



最後に今後の活動についておうかがいしました。「私って、思ったことと今やっていることの間にギャップがあったりします。それはいろんなニーズや状況によって、そのときの最もよい形がケース・バイ・ケースで違ってくるからで、私の中ではごく自然な流れで方向転換しています」と笑いながら語る西田さんには何か一筋ピンとしたものが通っていることを感じさせる目の輝きがあります。

第一稿のメールへの西田さんの返信に次のようなメッセージがありました。

もう一つ、私が目指す、社会的なミッションがあります。現代社会においては、従来の社会が「リアル地球」と称するならば、インターネット上では「バーチャル地球」が存在しており、2つの地球が互いに干渉したり、シンクロしあって、現在のような社会が形成されています。(googleなどの影響で加速していますね)

「情報格差」という言葉がありますが、私の解釈では、格差とは、その2つの地球を上手に住み分けできるかできないかの違いによって起こるもの。インフラ面では、日本においては、ほぼ平等に権利を手に入れているのですが、必ず加速していく社会の波に乗れない人も出てくる。私は、その受け皿が絶対的に必要だと思っています。

ドルフィンワークスは、その、リアルとバーチャルをつなぐ潤滑油のような役目と、希薄になりつつある”心”と心の闇に焦点をあて、人と人、ネットワークをつなぐ潤滑油になりたいと思っています。SOHOフォレストも、スタンドアップも、その通過点での試みです。


西田さんのこれまでの話を聞いていると、一人の女性が「顔のない」ネット社会の海に飛び出し、そこでコミュニケーションの必要性を学び、そのことによって「自分」という存在意義がはっきりと実像化され、その実像をまとって「顔のある」実社会に繋がっている姿が見て取れます。そして今度は「顔のある」存在として、再びネット社会の海を自由の泳ぎまわっている姿。

創業以来、なぜ西田さんがこれほど注目を浴びておられるのか?それはネット社会と実社会という二つの社会を泳ぎ回る西田さんの行動範囲が一般人よりも遥かに広いわけですから、当然の帰結な訳です。時には戦略的に網にかかることもあるでしょうし、無作為に泳いでいるところを発見されたりもするでしょう。結果的に露出頻度が高くなり、正のスパイラルを起こすことになるという訳です。

「自分が味わった苦悩や失敗を伝えたり、コーチングすることで、これらから起業する方々が少しでもリスクを回避してもらえるようにサポートしていきたいと思っています。また、意図に反して苦境に立ってしまった方にもフォローできるような体制も組んでいきたいと思います。そして、仕事でも家庭でもストレスなくやっていけるような環境づくりをいろんな方法で目指してきたいですね」と語ってくれました。

西田ミワさんへのアクセスは下記。

ドルフィンワークス
代表 西田ミワ 
OFFICE:(〒862-0902)熊本市東本町16-39-1001
TEL&FAX:096-368-8176 / MOBILE:090-3415-5630
URL:http://dolphin-w.com / MAIL:info@dolphin-w.com
SKYPE:dw-nishida / mixiネーム:旅ねこ
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▼スタンドアップblog更新中!
http://tabineko.otemo-yan.net/
◆「SOHOフォレスト」準備中!

(追記)~西田さんからのメッセージ~

この本になぞりながら、次世代リーダーのあり方について私のメンターである増田紀彦氏がこのような記事を書いておられます。

▼【独立事典デスク:週刊「増田紀彦」通信】
第44回「それぞれの持ち味」 2003.06.27配信
http://www.keyplanet.com/keypla/masuda/masu04.html

求めている仕事のありかたを模索している時、偶然に、増田氏のこの記事を読み、リーダーのあり方について深く感銘を受けました。※増田紀彦氏は、アントレ編集デスクでもあり、起業家でもあり、現在は、NICeのチーフプロデューサーでもあります。

▼NICe(起業家SNS) 経済産業省プロジェクト
http://www.nice-vec.jp/  
Posted by エントワークリンケージ at 16:46
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2008年03月16日

音楽で農業支援、ツゥートクエンジニアリング・永脇泰夫(16)

ミュージックバナナというバナナをご存知でしょうか?宮崎県の都城でモーツアルトを聞いて育ったバナナのことです。バナナ自体は青い状態で輸入して、日本で追熟してから販売する商品。ミュージックバナナは、フィリピンの海抜300メートル以上の高地で栽培されたバナージュという優良品種をコンテナ積みのまま都城へ輸送し、熟成倉庫に搬入し、モーツァルトを聞かせて熟成しているといいます。



モーツアルトの曲には8000ヘルツ以上の高周波音とゆらぎの音がたくさん含まれていて、あるゆるものの分子を活性化する作用があると言われ、「モーツアルト効果」という言葉まで生まれています。波動がキーワードだそうです。私はまだ食べたことはありませんが、消費者調査では90%近くの人が一般のバナナよりもおいしいと回答しているという結果も出ているそうです。

このミュージックバナナを認定しているのが「日本音楽熟成協会」です。この協会は、「音楽熟成の研究と開発により、その成果を会員および一般に啓発・普及し、もって社会の健全な発展に寄与する事を目的」とし、会長は七田チャイルドアカデミー、右脳開発で有名な七田眞さんです。「都城大同青果」がこの協会に技術的なアドバイスを受けて音楽熟成されたこのバナナは傷みも少ないということです。

また前置きが長くなりましたが、16回目のゲストは、こうした話とは関係なく熊本県の農業を音楽の力で再生させたいと昨年1月下旬に起業した㈱ツゥートクエンジニアリング・代表取締役の永脇泰夫さん(50)です。永脇さんとのご縁は、第6回目のゲスト田上菜穂美さんのオフィスがある「夢挑戦プラザ21」にお邪魔した際に、入居会社一覧を見て同社のことを知り、田上さんに紹介していただきました。



永脇さんは御船町のご出身。小学校から高校まで御船で過され、前職の建設会社で25年間、音響設備の仕事に携わっておられました。公共ホールや学校の音響、放送設備、映像、通信システム設備の設計・施工という仕事です。折からの公共事業費の削減で事業が縮小化に向かう中、これまでの技術を、同じく苦境にあえぐ県内農業の再生に活かしたいということで独立、起業されました。

会社名の「ツゥートク」は前職の会社名から。「社長に頼んで暖簾分け的にいただきました」と、前職の仕事と会社に愛着を持つ技術者としての永脇さんのお人柄が現われています。この会社から二人の後輩を引き連れての起業でした。ちなみに「ツゥートク」は、「通信、特殊機器」の頭文字を取ったネーミングです。

ミュージックバナナの話とは関係なく、と書きましたが、この話は永脇さんからお聞きしたものです。永脇さんも音楽を使って農作物を栽培したり、牛や豚、鶏などにモーツァルトなどの音楽を聞かせる農家があるということは勿論ご存知で、それだからこそこの事業に足を踏み入れられた訳です。起業後にいろいろ情報収集してみたところ、その試みが全国的に行われていたことがわかった、ということで、このミュージックバナナの話もその一つです。

そして永脇さんの情報収集の中から紹介してもらったのが「タンパク質の音楽」(ちくまプリマーブックス)という本です。この本の紹介文には次のようなコメントがありました。



「タンパク質と音楽。まったく関係がないように見えるこの2つの事柄が、実はとても深く結びついているのです。地球上のあらゆる生命活動が、タンパク質の奏でる音楽に左右されていると言っても過言ではありません。“タンパク質の音楽”の用途はさまざま。正しく利用することによって、近い将来、農業や医療の世界に革命がもたらされることになるでしょう」

タンパク質の分子構造を音符に置き換えるとなんと、クラシック調のメロディーが紡ぎだされるというのです。「たんぱく質の音楽」には次にように書かれています。

「ウシにモーツァルトを聞かせると乳がよく出る」。音楽の効果を示すのによく取り上げられる話である。ところがその理由となると、「ウシも音楽でいい気持ちになり、乳の出もよくなったのだろう」くらいにしか考えられていない。だがステルンナイメール博士の提案した《タンパク質の音楽》理論によれば、この現象も十分に説明ができるのだ。

乳腺の発達や乳汁の分泌を促すタンパク質として、プロラクチンが知られている。その機能から、乳腺刺激ホルモンとも呼ばれる。そこでステルンナイメール博士は、このタンパク質をメロディに置き換えることを思いついた。果たして予想に違わず、モーツァルト的としか言いようのない部分が含まれていたのだ。


この本が永脇さんのインスピレーションを裏付けました。「『安全でおいしい食の追及』をテーマに、第一次産業(農業・畜産・酪農・養鶏等)を音楽と音響設備で支援しよう。ビニールハウス・牛舎・豚舎に高品の音楽を流し、農作物・家畜に癒しの空間を作り出し、生産性の向上を目指そう」と。現状では各農家が独自に取り組んでいる音楽熟成を、永脇さんは一つのシステムとして構築し、安価に提供したいと考えておられます。

例えば、朝5時からモーツァルトが流れ7時に自動的に止まるシステム。日によって、時間によって流す曲を自動的に変えるシステムなどなど。また、動物の条件反射も性質を利用して、餌を与える時間を音楽で知らせたり、乳牛には相当なストレスになるという搾乳時に音楽でストレスを緩和したりといろいろな応用が可能だそうです。



「耳のある動物なら音楽を聞かせても効果がありそうなことはわかってもらえますが、耳のない植物に効果があるのかとよく聞かれます。でも実際は植物こそ、この音楽が効果的なんですね。音楽、音響は空気振動です。植物はこの空気振動を敏感に受容してくれるのです。よい空気振動は、光合成を促進したり、水分の吸収力を高めるという研究結果もあります。ですから、動物よりも植物は感受性が高いと言えますよ」と永脇さん。確かに観葉植物に声をかけるとよく育つという話はよく聞きますよね。

目下の課題は二つ。音響設備による研究データが少ないこと。また、このデータを取るには研究機関と農業施設が必要になって、資金も時間もかかる。ですから、永脇さんは今のところこのシステムを積極的に販売しようとは思っていません。ご自分の収穫する農作物に付加価値をつけたいと積極的に