2008年02月24日
新たな温泉ブランドを目指す、若き起業家・福田厚氏(12)
12回目のゲストは、第一回目の守屋尚さん、第三回目の松岡雄一さん、第六回目の田上菜穂美さんと同じ創業塾の塾生だった福田厚氏(36)さん。熊本県北部に位置し、2006年3月1日、菊水町と三加和町が対等合併した和水(なごみ)町で今年、福田さんは家族湯「湯亭 上弦の月」を開業予定です。翌日が地鎮祭というまさに一番忙しいときに時間をもらって話をうかがいました。

12年間東京でアパレル業界のMD(マーチャンダイザー)を勤めていた福田さんは、ご長男に続き二人目のお子様になるご長女の誕生を機に熊本に帰ることを決意され、昨年3月にUターン。和水町でお父様が経営されている不動産事業、更に町から嘱託されて支配人(H20年1月末で退職)を務められていた第三セクターを発展させた、民活と地域興しの両立という発想で「家族湯」事業を発案されました。創業塾の第一回目が昨年8/25でしたが、すでにそのときに青写真が出来ていました。
福田さんと私は創業塾では別グループだったので、福田さんが家族湯を事業にされようとしていることを知ったのは、塾終了後の懇親会でお会いしたときでした。そのときには事業計画書もほぼできあがり、金融機関との融資交渉が進んでいました。私の単純な興味は、福田さんがサラリーマンから転進していきなり事業計画書を書き上げ、金融機関との折衝まで漕ぎ着けているという俊敏さでした。Uターンした時は家族湯をするとは思っていなかった福田さんの事業の発案は昨年の7月だったといいます。
福田さんが戻ってみると、お父様は第三セクターの支配人としての仕事が忙しく、ご自分の会社はほったらかし状態に近く、福田さんが実質的に引継ぐことになりました。「縫製工場は業績不振で6年前に廃業。自社工場跡地を利用し不動産賃貸業に事業転換。現在は家賃収入で前事業の債務整理中。このままでいくと完済まで約20年掛かるため、新たな事業の柱が必要でした。会社の内容を整理しながら不動産事業とは別の収入源としてソフトバンクモバイル・Yahoo! BBの取扱店としての活動を拡大している最中でした」。

一方で、お父様を手伝うために第三セクターにたびたび出入りし、「ボランティアでイベントの手伝いなどしていると色々と企画のアイデアや事業プランなどが浮かんできたんですが三セクの性質上、実現がなかなか難しいんですね」。だったら自分の手で事業を起こそうというのが福田さんの気概。(写真は「三加和温泉ふるさと交流センター」)
お父様が縫製工場の経営者であったことから、ゆくゆくは自分が継ぐことになるだろうということで福田さんが就職されたのが前述のアパレルメーカーでしたが、このMDという仕事で彼が積んだキャリアがこの起業アクションの俊敏さを生んだのでした。「事業計画書は9月の時点ではラフ案でした。出来たものを順次銀行に見せながら、最終的な計画書は12月に提出。1月に1回目の融資が実行されました」と淡々と語られます。普通はここが一番難しいところですが、福田さんは一気に駆け抜けます。
「私がいたのは百貨店向けブランドも手がける中堅企業でしたが、そこではブランドが一つの会社と同じなんです。MDは、企画、原材料(素材)選び、デザイン、製造、物流、販売とエンドユーザーまでの流れにすべて関わっていました。この経験は貴重だったと思います」と福田さん。
家族湯の着想までの経緯をもう少し詳しくうかがうと、MDだった当時から福田さんにはぼんやりとではありながら、お客様とゆっくり対話できるような、サロン的な、くつろげる空間を造りたいという思いがありました。そこに、「家族湯」自体がもともとは近隣の山鹿市発祥であり、今では全国区になっている「平山温泉」が注目されていました。にも関わらず、和水町では民営二軒、町営二軒の四軒の温泉施設しかなく、温泉地として認知されない現状を何とか変えたいという着想になっていきます。
「あるとき、セミナーか本だったか忘れましたが、地域振興をする人は『若者、よそ者、ばか者』でなければならないということを聞いたんです。それが自分と重なると思ったんです」と福田さんは語ります。「ばか者」とはもちろん、「常識を超えられる者」という意味だと思いますが、おもしろい言葉だったので、ネットで検索してみると、ほぼ日刊イトイ新聞のリオ吉さんの次のような記事がありました。
「第2回 若者よそ者ばか者」(http://www.1101.com/amsterdam/2003-10-17.html)
前回、「アムステルダムほど自由なところはない」と、17世紀にデカルトさんが述べた(らしい)と書いたところで終わりましたが、どうしてそんな自由な雰囲気があったのかというと、やはりよそ者が入ってきて作り上げた街だからといえると思います。移民ですね、移民。しがらみがなく、ゼロから始める、移民。
もともとオランダのあるあたりは、海なのか陸なのかわからないような低地の湖沼地帯で、雨は多いし陽は照らないと、決して暮らしやすい土地とは呼べなかったところを、(プロテスタントと呼んでいいのでしょうか)新興階級とそれをささえる労働者が干拓で埋め立てて出来たところなんですね。新しいことは「若者で、よそ者で、ばか者」がやるといったのは邱(永漢)先生だったでしょうか、アムステルダムは、よそ者ばかりで作ったようなところなんです。
また、ある政治家のブログには次のような記述がありました。
「軽井沢をブランドの避暑地として掘り起こしたのは米国の伝道師、北海道のニセコをブランドスキー場にしたのはオーストラリア人です。私が美作で親しくしていただいている支援者の何人かは、一度美作を離れたことのある方々です。情報量が異なると、同じものをみる視点が異なるというのが、よそ者なのかなあ、とも思います。米国に8年間いたので、日本で気づいたこともあります。諸外国をまわったからこそ、わかることもあります」。
「若者、よそ者、ばか者」、福田さんは36歳、この町出身ですが12年間東京で暮らした「よそ者」。「『ばか者』」役(前述の意味で)は地元では多少影響力のある父に任せておけばいい」、というのが福田さんのこの事業に立ち向かうエネルギーです。そして、この「家族湯」というハードを、最高の「もてなし」というソフトで提供したいというのが福田さんの真骨頂です。福田さんは、地に足のついたホスピタリティを追求したいと語られました。

「国道443号の和水町内を走行すると道の南側に温泉街が見える。町内には、三加和温泉ふるさと交流センターとふれあいの森あばかん家の二つの施設がある。町営ではないが、ふるさと交流センター前のコンビニの中に天然温泉の家族風呂があり地元のテレビなどで紹介された。最近は、付近に家族風呂を備えた温泉がオープンしたり、隣の山鹿市の平山温泉などとともに注目されている」。
これは、「三加和温泉」に関する現在のウィキペディアの記事です。福田さんはきっとこの記事を書き換えたいはずです。この地に、本物のホスピタリティ空間を造る。その手段が当面は「家族湯「湯亭 上弦の月」。「三加和温泉」のこの最後の文章にはっきりと「全国でも有名になった」と前置きがされることを。
地鎮祭を終えればいよいよボーリングが始まります。福田さんは、温泉を掘り起こす期限を5月いっぱいと踏んでいます。12~14部屋の貸しきり温泉施設をできれば10月、遅くとも12月までのオープンさせることを目指しています。これからまさに時間との闘いだと思った私は、「これから胃の痛い日が続きますね」と打診すると、「いや、私は鈍感だから大丈夫だと思います」と応えられました。さすがです。
このブログでは、その後の進捗などをフォローできればと考えています。

12年間東京でアパレル業界のMD(マーチャンダイザー)を勤めていた福田さんは、ご長男に続き二人目のお子様になるご長女の誕生を機に熊本に帰ることを決意され、昨年3月にUターン。和水町でお父様が経営されている不動産事業、更に町から嘱託されて支配人(H20年1月末で退職)を務められていた第三セクターを発展させた、民活と地域興しの両立という発想で「家族湯」事業を発案されました。創業塾の第一回目が昨年8/25でしたが、すでにそのときに青写真が出来ていました。
福田さんと私は創業塾では別グループだったので、福田さんが家族湯を事業にされようとしていることを知ったのは、塾終了後の懇親会でお会いしたときでした。そのときには事業計画書もほぼできあがり、金融機関との融資交渉が進んでいました。私の単純な興味は、福田さんがサラリーマンから転進していきなり事業計画書を書き上げ、金融機関との折衝まで漕ぎ着けているという俊敏さでした。Uターンした時は家族湯をするとは思っていなかった福田さんの事業の発案は昨年の7月だったといいます。
福田さんが戻ってみると、お父様は第三セクターの支配人としての仕事が忙しく、ご自分の会社はほったらかし状態に近く、福田さんが実質的に引継ぐことになりました。「縫製工場は業績不振で6年前に廃業。自社工場跡地を利用し不動産賃貸業に事業転換。現在は家賃収入で前事業の債務整理中。このままでいくと完済まで約20年掛かるため、新たな事業の柱が必要でした。会社の内容を整理しながら不動産事業とは別の収入源としてソフトバンクモバイル・Yahoo! BBの取扱店としての活動を拡大している最中でした」。

一方で、お父様を手伝うために第三セクターにたびたび出入りし、「ボランティアでイベントの手伝いなどしていると色々と企画のアイデアや事業プランなどが浮かんできたんですが三セクの性質上、実現がなかなか難しいんですね」。だったら自分の手で事業を起こそうというのが福田さんの気概。(写真は「三加和温泉ふるさと交流センター」)
お父様が縫製工場の経営者であったことから、ゆくゆくは自分が継ぐことになるだろうということで福田さんが就職されたのが前述のアパレルメーカーでしたが、このMDという仕事で彼が積んだキャリアがこの起業アクションの俊敏さを生んだのでした。「事業計画書は9月の時点ではラフ案でした。出来たものを順次銀行に見せながら、最終的な計画書は12月に提出。1月に1回目の融資が実行されました」と淡々と語られます。普通はここが一番難しいところですが、福田さんは一気に駆け抜けます。
「私がいたのは百貨店向けブランドも手がける中堅企業でしたが、そこではブランドが一つの会社と同じなんです。MDは、企画、原材料(素材)選び、デザイン、製造、物流、販売とエンドユーザーまでの流れにすべて関わっていました。この経験は貴重だったと思います」と福田さん。
家族湯の着想までの経緯をもう少し詳しくうかがうと、MDだった当時から福田さんにはぼんやりとではありながら、お客様とゆっくり対話できるような、サロン的な、くつろげる空間を造りたいという思いがありました。そこに、「家族湯」自体がもともとは近隣の山鹿市発祥であり、今では全国区になっている「平山温泉」が注目されていました。にも関わらず、和水町では民営二軒、町営二軒の四軒の温泉施設しかなく、温泉地として認知されない現状を何とか変えたいという着想になっていきます。
「あるとき、セミナーか本だったか忘れましたが、地域振興をする人は『若者、よそ者、ばか者』でなければならないということを聞いたんです。それが自分と重なると思ったんです」と福田さんは語ります。「ばか者」とはもちろん、「常識を超えられる者」という意味だと思いますが、おもしろい言葉だったので、ネットで検索してみると、ほぼ日刊イトイ新聞のリオ吉さんの次のような記事がありました。
「第2回 若者よそ者ばか者」(http://www.1101.com/amsterdam/2003-10-17.html)
前回、「アムステルダムほど自由なところはない」と、17世紀にデカルトさんが述べた(らしい)と書いたところで終わりましたが、どうしてそんな自由な雰囲気があったのかというと、やはりよそ者が入ってきて作り上げた街だからといえると思います。移民ですね、移民。しがらみがなく、ゼロから始める、移民。
もともとオランダのあるあたりは、海なのか陸なのかわからないような低地の湖沼地帯で、雨は多いし陽は照らないと、決して暮らしやすい土地とは呼べなかったところを、(プロテスタントと呼んでいいのでしょうか)新興階級とそれをささえる労働者が干拓で埋め立てて出来たところなんですね。新しいことは「若者で、よそ者で、ばか者」がやるといったのは邱(永漢)先生だったでしょうか、アムステルダムは、よそ者ばかりで作ったようなところなんです。
また、ある政治家のブログには次のような記述がありました。
「軽井沢をブランドの避暑地として掘り起こしたのは米国の伝道師、北海道のニセコをブランドスキー場にしたのはオーストラリア人です。私が美作で親しくしていただいている支援者の何人かは、一度美作を離れたことのある方々です。情報量が異なると、同じものをみる視点が異なるというのが、よそ者なのかなあ、とも思います。米国に8年間いたので、日本で気づいたこともあります。諸外国をまわったからこそ、わかることもあります」。
「若者、よそ者、ばか者」、福田さんは36歳、この町出身ですが12年間東京で暮らした「よそ者」。「『ばか者』」役(前述の意味で)は地元では多少影響力のある父に任せておけばいい」、というのが福田さんのこの事業に立ち向かうエネルギーです。そして、この「家族湯」というハードを、最高の「もてなし」というソフトで提供したいというのが福田さんの真骨頂です。福田さんは、地に足のついたホスピタリティを追求したいと語られました。

「国道443号の和水町内を走行すると道の南側に温泉街が見える。町内には、三加和温泉ふるさと交流センターとふれあいの森あばかん家の二つの施設がある。町営ではないが、ふるさと交流センター前のコンビニの中に天然温泉の家族風呂があり地元のテレビなどで紹介された。最近は、付近に家族風呂を備えた温泉がオープンしたり、隣の山鹿市の平山温泉などとともに注目されている」。
これは、「三加和温泉」に関する現在のウィキペディアの記事です。福田さんはきっとこの記事を書き換えたいはずです。この地に、本物のホスピタリティ空間を造る。その手段が当面は「家族湯「湯亭 上弦の月」。「三加和温泉」のこの最後の文章にはっきりと「全国でも有名になった」と前置きがされることを。
地鎮祭を終えればいよいよボーリングが始まります。福田さんは、温泉を掘り起こす期限を5月いっぱいと踏んでいます。12~14部屋の貸しきり温泉施設をできれば10月、遅くとも12月までのオープンさせることを目指しています。これからまさに時間との闘いだと思った私は、「これから胃の痛い日が続きますね」と打診すると、「いや、私は鈍感だから大丈夫だと思います」と応えられました。さすがです。
このブログでは、その後の進捗などをフォローできればと考えています。
2008年02月16日
スタイリッシュな支援を、社会起業家・西梅彰容(011)(下)
「やっぱり動かずにはいられなかった」西梅さんのもっと奥にある動機は何だったのか?私はそれを探るためにまず、これまでの彼女の24年間を振り返ってもらうことにしました。
それは彼女が小6のとき。「世界のしくみ」に関することを書いた本に出会います。その本の中に、「ストリート・チルドレン」のことが書かれていました。自分には何不足ない環境があるのに世界にはこうした環境で暮らしている子供たちがいることを知り、心を痛めた彼女は、「ユニセフに入りたい」と思ったそうです。「この国連職員になるために、私はそのために勉強しよう」と。
その向学心は高校受験で成果を発揮し、授業料全額免除の成績で入学します。小学校教諭だったお母様が西梅さんにこう切り出します。「あなたのために準備した授業料がお蔭で必要なくなりました。ついてはこの一部を恵まれない国の子供たちに寄付したいと思います」。クリスチャンのお母様はいつも彼女に「子供は神様に一番近いところにいる」と教えていました。以来、西梅さんは自分で収入を得はじめてからは今でも「チャイルド・スポンサー」という「里親」であり続けています。現在の「里子」はウガンダとバングラディッシュの子供たちです。
16歳。YMCA主催のワークキャンプ(スタディ・ツアー)でタイに行きます。そこで幹線道路下のスラム街で暮らす家族にめぐり会います。その家族はもともとタイの農村で暮らしていました。しかし不作などによる生活苦によりバンコクに出てきてしかし仕事は無く、ゴミ捨て場から使えそうな物を拾って売り、家族4人で一日3~400円程で暮らしていました。そこで西梅さんは通訳を通じて「農村にいた頃と今ではどちらが幸せですか?」というシンプルな質問をします。「それは、もちろん農村にいた頃です。あの時は朝、目が覚めると『ああ、朝だな』、日が暮れると『夜のなったな』と感じることができた。でもここは、一寸の光も差し込まず、朝なのか昼なのかわからないから。でも、農村では暮らしていけないから帰ることはできな」という返答でした。彼女はこのことに衝撃を受けます。
彼らの暮らしぶりをまざまざと見て、「夜、安心して眠ることは、平和の象徴なんだ」と彼女は考えるようになります。この体験を契機に西梅さんは、「人間の存在って何だろう?人間の営みって何だろう?自分の生きて行く理由って何だろう?」と考えるようになります。そう思った彼女は、養老孟司さんの著書「唯脳論」などを通じて、生物学的視点、社会行動学的視点のクロスするところにその答えがある筈だという仮説を立てました。(16歳でここまで考えるとは・・・)

こういったことを大学でも学ぼうと思った西梅さんは目標にする大学探しを始めますが、いっこうに目当ての学部を見つけられませんでしたが、一つだけ該当する学部がありました。それは東京大学教養学部でした。目標が定まったその日から西梅さんの猛勉強が始まります。毎日12時間。しかし、このストイックなまでのハードな勉強が彼女の心を蝕んでいきました。そして、うつ病と診断されるまでに彼女の心は衰弱してしまったのです。
彼女の残る高校生活2年間は心の癒しへの時間に費やされることになりました。その間、西梅さんは、県主催の「少年の船」(http://ksfl-web.com/pc/)で沖縄へ何度か訪れます。他にも奄美や鹿児島、静岡、冬の長野、新潟を訪れている中で、自然と子供の関わりの大切さを感じ、同時に、この経験を通して、何の価値も見いだせなかった自分の中に「好奇心」があることを自覚します。
高校を卒業し19歳になった彼女は、何かに誘われるかのようにNGOの活動のためインド、バングラディシュへ。このときカルカッタでマザー・テレサの施設「死を待つ人の家」を訪れます。そこで、西梅さんは路上で死んでいく人たちを目の当たりにします。幼い頃から常に生と死について考えてきた彼女の中では、常に自殺願望がありました。しかし、この光景を見た彼女に「でも、犬死はしたくない」という気持ちが生まれたのです。

そして、数年後に旅行で訪れたベトナムでも衝撃を受けます。ベトナムの純朴な人々、肥沃なメコン川、美しい農村の風景、色とりどりに咲き乱れる野生の花々、木からもぎってすぐに食べられる果物、豊かで美しくてまるで天国のような場所だと感動します。そしてそのあと、西梅さんはベトナム戦争博物館を訪れるのです。ベトナム戦争の実態をはじめて知った彼女は放心状態になるほどの衝撃を受けます。こんな美しいところへ枯葉剤を撒き、あらゆる戦闘機器を駆使し罪のない人々を次々と殺戮し拷問し、そして意味のない戦いとして終わった。この事実に触れ、西梅さんは、自分は何もしないまま死んではいけない、と、世界にあふれる不条理をそのままにしてはいけないと強く思うのです。
その後、西梅さんは友達からの誘いで、熊本が本社でカフェを運営する会社に入ります。ここで4年間勤める中で、彼女はコーヒー豆の生産と流通に阻む経済格差問題を知ることになります。どうも彼女の目には普通の人では見過ごしそうなことも、透視をするようにはっきりとした形で異常な実態が映し出されるようです。農産物などにはこうした不公平な事態を是正すべく「フェア・トレード」というシステムがあることを学びます。
既に熊本の三店舗、福岡の一店舗の運営指導の立場になっていた彼女は、「とのかく今、何かできることをしよう」と思い立ちます。コーヒー豆の生産と流通に潜む途上国と先進諸国の経済格差問題と、そのような不公平な事態を是正する「フェア・トレード」という新しい流通システムを知った彼女は全店舗のコーヒー豆に利用したものに切り換えることを経営サイドに提案し、GOサインをもらいます。了解は取ったものの、彼女の前には「コストを上げない、質を落とさない」というハードルが大きく立ちはだかりました。この難題に数ヶ月をかけて集中します。
苦労を重ねたのち、今年の5月にやっと全てがクリアになり準備が整いました。いよいよ明日からこの新しい豆に切り換えてスタートという日になんと突如、ストップがかかってしまったのです。苦渋の経営判断があったのです。そして、頓挫した計画とともにハードワークがたたり、西梅さんは倒れてしまいました。7月から12月まで休職を余儀なくされました。彼女にとって二度目の大きな挫折でした。
そして、この間に抜け殻化した彼女が出会ったのが、福岡の街頭で販売されていた一冊の雑誌、「ビッグイシュー」でした。ホームレスの人々の自立支援をするこの一冊が、西梅さんの再起を促すことになりました。
私はいつものようにこの事業の目標をうかがいました。「メディアから今回の『ビッグイシュー熊本』の立ち上げに関する取材でよく聞かれんですね。それは、まず現在販売員のお二人に自立してもらうことです。自分たちができる範囲で一歩一歩やっていこうと思っています」。
しかし西梅さんには「ビッグイシュー熊本」の活動を通じて、日本での市民活動のあり方を変えたいという大きな目標があります。彼女は次のように語ってくれました。
「こういう支援活動を行うものは、どこか地味で、お人よし、宗教じみているという偏見があるんです。でも、私は消費社会を謳歌している人間です。買い物も好き、おしゃれも好き、おいしいものも食べたい、そんな人間です。ストイックなんて言葉とはかけ離れています。でも、私の個人的な希望は、お洒落なカフェでOLや子育て中のママさんが『私の里子がね・・・』って、日常会話で話されるような、そんなスタイリッシュな支援活動がなされる社会になること。これからの支援活動・社会活動は決してストイックである必要はないんだと思います。むしろこの消費社会の中ではその方が、多くの人の賛同を得られると思います。矛盾しているように思えるかもしれませんが、早く、一人でも多くの人を助けるためには、矛盾を飲み込むことも必要だと私は思っています」。
自然体でこの「ビッグイシュー熊本」と歩んで生きたいと語る西梅さんに、私はそれでの天邪鬼的に将来の彼女を想像してもらいました。すると、「貧困問題に命を懸けて取り組めるようなジャーナリストになることです」という即答が返ってきました。穏やかではありません。しかし、これまで「死」といつも寄り添うように生きてきた西梅さん、そして「好奇心」「行動力」「犬死したくない」というキーワードがそこにピッタリとはまってしまうことに気づくのです。前半の記事を見た西梅さんから次のようなメッセージが届きました。
私には「後悔」という思考回路がないようです。だから、先の心配をあまりせずに動くことができるんでしょうね。私はクリスチャンではありませんが『すべては益にかえられる』『神様のなさることは時にかなってすべて美しい』という聖書の言葉を信じています。そして、「運命」は自分ではコントロールできないものだということを。私は、自分の運命を受け入れることができたとき、はじめて心に平穏が訪れました。
そして、自殺を何度も何度も考えたとき、「なぜ自分はこんなに死にたいんだろう」と一生懸命考えた結論が・・・滑稽かもしれませんが・・前世の私は自殺をしたのではなかろうかと、それを今世で克服するためにこんな「(精神的に)死と対峙する」試練を与えられているのではないかと。そうとしか思えないくらい死がいつもそばにありました。
だから、今世の私の一番の目標は自殺しないことです。天命を全うすることです。それできっといいんだろうと思っています。そして、自分にも人にも物事にも「素直」に接したい。とってもシンプルです。
「やっぱり動かずにはいられなかった」西梅さんのもっと奥にある動機は何だったのか?ここまで聞いて、私はちゃんとその動機を理解できたように思います。そして、最後にもうひとつ、しかし、「やっぱり動かずにはいられなかった」西梅さんのほんとうの動機は、福岡の路上でこの雑誌を買った山本さんが書いていてた一編の詩でした。そして、偶然にも時を同じくして『ビッグイシュー熊本』の設立の一週間後に山本さんは職を得て自立されたのです。
「真っすぐに」
走ることが 嫌になったら 歩けばいい
ゆっくり ゆっくり 歩けばいい
歩くことに 疲れたら ゆっくり ゆっくり
休めばいい
でも あなたを待っている人がいる
早く会いたいと 待っている人がいる
さあ 立ち上がり 走りだそう
あなたを待っている 人のところへ
まっすぐに まっすぐに 迷わずに
ただ まっすぐに
それは彼女が小6のとき。「世界のしくみ」に関することを書いた本に出会います。その本の中に、「ストリート・チルドレン」のことが書かれていました。自分には何不足ない環境があるのに世界にはこうした環境で暮らしている子供たちがいることを知り、心を痛めた彼女は、「ユニセフに入りたい」と思ったそうです。「この国連職員になるために、私はそのために勉強しよう」と。
その向学心は高校受験で成果を発揮し、授業料全額免除の成績で入学します。小学校教諭だったお母様が西梅さんにこう切り出します。「あなたのために準備した授業料がお蔭で必要なくなりました。ついてはこの一部を恵まれない国の子供たちに寄付したいと思います」。クリスチャンのお母様はいつも彼女に「子供は神様に一番近いところにいる」と教えていました。以来、西梅さんは自分で収入を得はじめてからは今でも「チャイルド・スポンサー」という「里親」であり続けています。現在の「里子」はウガンダとバングラディッシュの子供たちです。
16歳。YMCA主催のワークキャンプ(スタディ・ツアー)でタイに行きます。そこで幹線道路下のスラム街で暮らす家族にめぐり会います。その家族はもともとタイの農村で暮らしていました。しかし不作などによる生活苦によりバンコクに出てきてしかし仕事は無く、ゴミ捨て場から使えそうな物を拾って売り、家族4人で一日3~400円程で暮らしていました。そこで西梅さんは通訳を通じて「農村にいた頃と今ではどちらが幸せですか?」というシンプルな質問をします。「それは、もちろん農村にいた頃です。あの時は朝、目が覚めると『ああ、朝だな』、日が暮れると『夜のなったな』と感じることができた。でもここは、一寸の光も差し込まず、朝なのか昼なのかわからないから。でも、農村では暮らしていけないから帰ることはできな」という返答でした。彼女はこのことに衝撃を受けます。
彼らの暮らしぶりをまざまざと見て、「夜、安心して眠ることは、平和の象徴なんだ」と彼女は考えるようになります。この体験を契機に西梅さんは、「人間の存在って何だろう?人間の営みって何だろう?自分の生きて行く理由って何だろう?」と考えるようになります。そう思った彼女は、養老孟司さんの著書「唯脳論」などを通じて、生物学的視点、社会行動学的視点のクロスするところにその答えがある筈だという仮説を立てました。(16歳でここまで考えるとは・・・)

こういったことを大学でも学ぼうと思った西梅さんは目標にする大学探しを始めますが、いっこうに目当ての学部を見つけられませんでしたが、一つだけ該当する学部がありました。それは東京大学教養学部でした。目標が定まったその日から西梅さんの猛勉強が始まります。毎日12時間。しかし、このストイックなまでのハードな勉強が彼女の心を蝕んでいきました。そして、うつ病と診断されるまでに彼女の心は衰弱してしまったのです。
彼女の残る高校生活2年間は心の癒しへの時間に費やされることになりました。その間、西梅さんは、県主催の「少年の船」(http://ksfl-web.com/pc/)で沖縄へ何度か訪れます。他にも奄美や鹿児島、静岡、冬の長野、新潟を訪れている中で、自然と子供の関わりの大切さを感じ、同時に、この経験を通して、何の価値も見いだせなかった自分の中に「好奇心」があることを自覚します。
高校を卒業し19歳になった彼女は、何かに誘われるかのようにNGOの活動のためインド、バングラディシュへ。このときカルカッタでマザー・テレサの施設「死を待つ人の家」を訪れます。そこで、西梅さんは路上で死んでいく人たちを目の当たりにします。幼い頃から常に生と死について考えてきた彼女の中では、常に自殺願望がありました。しかし、この光景を見た彼女に「でも、犬死はしたくない」という気持ちが生まれたのです。

そして、数年後に旅行で訪れたベトナムでも衝撃を受けます。ベトナムの純朴な人々、肥沃なメコン川、美しい農村の風景、色とりどりに咲き乱れる野生の花々、木からもぎってすぐに食べられる果物、豊かで美しくてまるで天国のような場所だと感動します。そしてそのあと、西梅さんはベトナム戦争博物館を訪れるのです。ベトナム戦争の実態をはじめて知った彼女は放心状態になるほどの衝撃を受けます。こんな美しいところへ枯葉剤を撒き、あらゆる戦闘機器を駆使し罪のない人々を次々と殺戮し拷問し、そして意味のない戦いとして終わった。この事実に触れ、西梅さんは、自分は何もしないまま死んではいけない、と、世界にあふれる不条理をそのままにしてはいけないと強く思うのです。
その後、西梅さんは友達からの誘いで、熊本が本社でカフェを運営する会社に入ります。ここで4年間勤める中で、彼女はコーヒー豆の生産と流通に阻む経済格差問題を知ることになります。どうも彼女の目には普通の人では見過ごしそうなことも、透視をするようにはっきりとした形で異常な実態が映し出されるようです。農産物などにはこうした不公平な事態を是正すべく「フェア・トレード」というシステムがあることを学びます。

苦労を重ねたのち、今年の5月にやっと全てがクリアになり準備が整いました。いよいよ明日からこの新しい豆に切り換えてスタートという日になんと突如、ストップがかかってしまったのです。苦渋の経営判断があったのです。そして、頓挫した計画とともにハードワークがたたり、西梅さんは倒れてしまいました。7月から12月まで休職を余儀なくされました。彼女にとって二度目の大きな挫折でした。
そして、この間に抜け殻化した彼女が出会ったのが、福岡の街頭で販売されていた一冊の雑誌、「ビッグイシュー」でした。ホームレスの人々の自立支援をするこの一冊が、西梅さんの再起を促すことになりました。
私はいつものようにこの事業の目標をうかがいました。「メディアから今回の『ビッグイシュー熊本』の立ち上げに関する取材でよく聞かれんですね。それは、まず現在販売員のお二人に自立してもらうことです。自分たちができる範囲で一歩一歩やっていこうと思っています」。
しかし西梅さんには「ビッグイシュー熊本」の活動を通じて、日本での市民活動のあり方を変えたいという大きな目標があります。彼女は次のように語ってくれました。

自然体でこの「ビッグイシュー熊本」と歩んで生きたいと語る西梅さんに、私はそれでの天邪鬼的に将来の彼女を想像してもらいました。すると、「貧困問題に命を懸けて取り組めるようなジャーナリストになることです」という即答が返ってきました。穏やかではありません。しかし、これまで「死」といつも寄り添うように生きてきた西梅さん、そして「好奇心」「行動力」「犬死したくない」というキーワードがそこにピッタリとはまってしまうことに気づくのです。前半の記事を見た西梅さんから次のようなメッセージが届きました。
私には「後悔」という思考回路がないようです。だから、先の心配をあまりせずに動くことができるんでしょうね。私はクリスチャンではありませんが『すべては益にかえられる』『神様のなさることは時にかなってすべて美しい』という聖書の言葉を信じています。そして、「運命」は自分ではコントロールできないものだということを。私は、自分の運命を受け入れることができたとき、はじめて心に平穏が訪れました。
そして、自殺を何度も何度も考えたとき、「なぜ自分はこんなに死にたいんだろう」と一生懸命考えた結論が・・・滑稽かもしれませんが・・前世の私は自殺をしたのではなかろうかと、それを今世で克服するためにこんな「(精神的に)死と対峙する」試練を与えられているのではないかと。そうとしか思えないくらい死がいつもそばにありました。
だから、今世の私の一番の目標は自殺しないことです。天命を全うすることです。それできっといいんだろうと思っています。そして、自分にも人にも物事にも「素直」に接したい。とってもシンプルです。
「やっぱり動かずにはいられなかった」西梅さんのもっと奥にある動機は何だったのか?ここまで聞いて、私はちゃんとその動機を理解できたように思います。そして、最後にもうひとつ、しかし、「やっぱり動かずにはいられなかった」西梅さんのほんとうの動機は、福岡の路上でこの雑誌を買った山本さんが書いていてた一編の詩でした。そして、偶然にも時を同じくして『ビッグイシュー熊本』の設立の一週間後に山本さんは職を得て自立されたのです。
「真っすぐに」
走ることが 嫌になったら 歩けばいい
ゆっくり ゆっくり 歩けばいい
歩くことに 疲れたら ゆっくり ゆっくり
休めばいい
でも あなたを待っている人がいる
早く会いたいと 待っている人がいる
さあ 立ち上がり 走りだそう
あなたを待っている 人のところへ
まっすぐに まっすぐに 迷わずに
ただ まっすぐに
2008年02月09日
スタイリッシュな支援を、社会起業家・西梅彰容(11)(上)
昨年12月初旬、FMの朝の番組「SKY」を聞いていて、「ビッグイシュー」という運動のことを知りました。イギリス発祥の「THE BIG ISSUE」という雑誌をホームレスの人たちが販売し収入を得ることによって自立支援を促す運動で、目下のところ大阪、神戸、京都、東京での活動が中心だということでした。
そして、今月2日、「ホームレスの自立支援雑誌 熊本市でも」という記事が目に留まりました。それによると、任意団体である支援団体「ビッグイシュー熊本」を立ち上げたのが24歳の女性であることを知り、驚いたのでした。私は、即日に大阪の(有)ビッグイシュー本部へインタヴュー申込みのメールを送信。そして、7日、その「ビッグイシュー熊本」の代表・西梅彰容(あきよ)さん(24)とお会いしまた。

2日以降、「ビッグイシュー」そのものの運動と「ビッグイシュー熊本」については、各メディアで競うように報じられました。その概要については、下記にリンク先を添付しておきますので、そちらでチェックしていだだくとして、ここでは、24歳の西梅彰容さんがなぜ、全国で13番目となるこの支援団体を立ち上げようと思われたのかについてご紹介したいと思います。
西梅さんがこの「ビッグイシュー」という本に初めて出合ったのは、昨年5月に販売が開始された福岡・天神でした。カフェの運営指導という立場にある西梅さんは、その一店舗である福岡店を訪れた際に路上販売をする「ビッグイシュー」を手に取ったのでした。この雑誌の意味を知り、その後何度か雑誌を購入していた西梅さんは販売員である山本さんに、どこで夜寝ていらっしゃるのですか?と尋ねます。
「今はビッグイシューの収入があるのでネットカフェで毎日眠れています、シャワーもありますしね。でもお金を使わないように5時間パックなんかにしてると、シャワー浴びたりなんかしてたらすぐ過ぎちゃうんですけどね~」と山本さんは笑いながら話されたそうです。
その山本さんの笑顔を見た西梅さんは、「ビッグイシューは『夜、安心して眠る』チャンスを販売者に本当に提供してるんだ」と実感します。「自分の目の前にいる人が本当にビッグイシューに救われている、
ということをリアルに感じたら、やっぱり動かずにはいられなかったんですね」と。
それでも私には、腑に落ちないところがありました。私もこのビッグイシューのことを知り、この活動が彼らの自立を後押しているんだなと理解しました。しかし、私はそれをブログの中で語っただけでした。率先して私が手を上げようとは思いもしませんでした。単に私が物臭なのか、他人事だと頭の中で整理しただけなのか?今回のインタヴューで私は自分の器について改めて考える機会をもらいました。
「やっぱり動かずにはいられなかった」西梅さんのもっと奥にある動機を私は知りたくなりました。今回はこうした理由で、インタヴューを前半と後半に分けてお送りします。(続く)
<ビッグイシュー関連記事>
「『ビッグイシュー』熊本市でも ホームレスが雑誌販売 4日から収益で自立目指す」(2008/02/03付西日本新聞)
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/kumamoto/20080203/20080203_002.shtml
「ビッグイシュー:あすから販売 /熊本」(2月3日16時1分配信 毎日新聞)
http://mainichi.jp/area/kumamoto/news/20080203ddlk43040358000c.html
「ホームレスが売る雑誌 ビッグイシュー」(asahi.com2008年02月05日)
http://mytown.asahi.com/kumamoto/news.php?k_id=44000000802050003
「ビジネス通じホームレスの自立を支援する『ビッグイシュー』」(後藤 愼一)
http://ameblo.jp/asongotoh/entry-10061322950.html
「ビッグイシュー日本版」(http://www.bigissue.jp/)

「社会起業家」。今回の記事で西梅さんのことをそう呼ばせていただきたいのです。西梅さんには釈迦に説法となるかもしれませんが、念のためにウィキペデキアでの次ぎの解説を引用しますね。
社会起業家は、「社会変革(英:Social change)の担い手(チェンジメーカー)として、社会の課題を、事業により解決する人のことを言う。社会問題を認識し、社会変革を起こすために、ベンチャー企業を創造、組織化、経営するために、起業という手法を採るものを指す。社会起業家(社会的企業家)により行われる事業は、社会的企業(ソーシャル・エンタープライズ、Social Enterprise)と表現されている)。
「ビジネスの起業家は、典型的には儲けと自分にどの程度報酬があったかで、その実績を計るのに対し、社会起業家は、社会にどれだけの強い効果を与えたかを成功したかどうかの尺度にしている。NPOや市民グループを通して働きかけを行うことが多いが、この分野で働く人は、企業や政府のセクターで働く人が多い。社会的企業家(ソーシャル・アントレプレナー, Social Entrepreneur)ともいわれ、「ソーシャル・イノベーション(Social Innovation)を起こす人」とも定義される。自ら団体・会社を始める人でも、組織内にあって改革を起こす人でも、いずれもありとされる」。
そして、今月2日、「ホームレスの自立支援雑誌 熊本市でも」という記事が目に留まりました。それによると、任意団体である支援団体「ビッグイシュー熊本」を立ち上げたのが24歳の女性であることを知り、驚いたのでした。私は、即日に大阪の(有)ビッグイシュー本部へインタヴュー申込みのメールを送信。そして、7日、その「ビッグイシュー熊本」の代表・西梅彰容(あきよ)さん(24)とお会いしまた。

2日以降、「ビッグイシュー」そのものの運動と「ビッグイシュー熊本」については、各メディアで競うように報じられました。その概要については、下記にリンク先を添付しておきますので、そちらでチェックしていだだくとして、ここでは、24歳の西梅彰容さんがなぜ、全国で13番目となるこの支援団体を立ち上げようと思われたのかについてご紹介したいと思います。
西梅さんがこの「ビッグイシュー」という本に初めて出合ったのは、昨年5月に販売が開始された福岡・天神でした。カフェの運営指導という立場にある西梅さんは、その一店舗である福岡店を訪れた際に路上販売をする「ビッグイシュー」を手に取ったのでした。この雑誌の意味を知り、その後何度か雑誌を購入していた西梅さんは販売員である山本さんに、どこで夜寝ていらっしゃるのですか?と尋ねます。
「今はビッグイシューの収入があるのでネットカフェで毎日眠れています、シャワーもありますしね。でもお金を使わないように5時間パックなんかにしてると、シャワー浴びたりなんかしてたらすぐ過ぎちゃうんですけどね~」と山本さんは笑いながら話されたそうです。
その山本さんの笑顔を見た西梅さんは、「ビッグイシューは『夜、安心して眠る』チャンスを販売者に本当に提供してるんだ」と実感します。「自分の目の前にいる人が本当にビッグイシューに救われている、
ということをリアルに感じたら、やっぱり動かずにはいられなかったんですね」と。
それでも私には、腑に落ちないところがありました。私もこのビッグイシューのことを知り、この活動が彼らの自立を後押しているんだなと理解しました。しかし、私はそれをブログの中で語っただけでした。率先して私が手を上げようとは思いもしませんでした。単に私が物臭なのか、他人事だと頭の中で整理しただけなのか?今回のインタヴューで私は自分の器について改めて考える機会をもらいました。
「やっぱり動かずにはいられなかった」西梅さんのもっと奥にある動機を私は知りたくなりました。今回はこうした理由で、インタヴューを前半と後半に分けてお送りします。(続く)
<ビッグイシュー関連記事>
「『ビッグイシュー』熊本市でも ホームレスが雑誌販売 4日から収益で自立目指す」(2008/02/03付西日本新聞)
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/kumamoto/20080203/20080203_002.shtml
「ビッグイシュー:あすから販売 /熊本」(2月3日16時1分配信 毎日新聞)
http://mainichi.jp/area/kumamoto/news/20080203ddlk43040358000c.html
「ホームレスが売る雑誌 ビッグイシュー」(asahi.com2008年02月05日)
http://mytown.asahi.com/kumamoto/news.php?k_id=44000000802050003
「ビジネス通じホームレスの自立を支援する『ビッグイシュー』」(後藤 愼一)
http://ameblo.jp/asongotoh/entry-10061322950.html
「ビッグイシュー日本版」(http://www.bigissue.jp/)

「社会起業家」。今回の記事で西梅さんのことをそう呼ばせていただきたいのです。西梅さんには釈迦に説法となるかもしれませんが、念のためにウィキペデキアでの次ぎの解説を引用しますね。
社会起業家は、「社会変革(英:Social change)の担い手(チェンジメーカー)として、社会の課題を、事業により解決する人のことを言う。社会問題を認識し、社会変革を起こすために、ベンチャー企業を創造、組織化、経営するために、起業という手法を採るものを指す。社会起業家(社会的企業家)により行われる事業は、社会的企業(ソーシャル・エンタープライズ、Social Enterprise)と表現されている)。
「ビジネスの起業家は、典型的には儲けと自分にどの程度報酬があったかで、その実績を計るのに対し、社会起業家は、社会にどれだけの強い効果を与えたかを成功したかどうかの尺度にしている。NPOや市民グループを通して働きかけを行うことが多いが、この分野で働く人は、企業や政府のセクターで働く人が多い。社会的企業家(ソーシャル・アントレプレナー, Social Entrepreneur)ともいわれ、「ソーシャル・イノベーション(Social Innovation)を起こす人」とも定義される。自ら団体・会社を始める人でも、組織内にあって改革を起こす人でも、いずれもありとされる」。
2008年02月07日
笑顔あふれる日本一のレストランを目指す、坂田孝行(10)
先日雑誌を見ていて、あるレストランの写真が目に入り気になってHPで内容を見ると、ただならぬ高級レストランのたたずまい。これはと思い、意を決して飛び込みでインタヴューの申込みを願い出ました。すると、唐突で怪しげな依頼にも関わらず、スタッフの方に実に丁寧な対応をしていただきました。「支配人に伝えますので後日、連絡をいただけますでしょうか?」ということで先週連絡を取り、昨日が初対面でのインタヴューとなりました。

そんな訳で、第10回目のゲストは、あのMarry Graceの支配人、坂田孝行(35)さんです。重厚な扉を開け、中に入ると、先日対応してくれたスタッフの男性が再び応じてくれました。二階の部屋に通してもらう間にも、見ず知らずの私にもスタッフの自然な笑顔と挨拶。きわめて自然です。そして、出されたお茶をいただく前に坂田さんが登場。
東バイパスと浜線バイパスの交差点の県庁寄りに位置するMarry GraceがMarry Gold(佐土原町)の姉妹店としてオープンしたのは、H16年の3月。オープンにあたって2名の新規採用枠に対して、応募者が100名以上という人気ぶり。採用の決め手は何だったのかうかがうと、キャリアよりも人柄だったそうです。実際、現在のスタッフは前職が金融関係、ディーラー営業、保育士さんなどということでした。
その坂田さんの入社経緯が面白いんですね。それまで置き薬の営業マンだった坂田さんは、H12年に結婚されます。そして、挙式をあげるその会場がMarry Goldでした。当初は奥様主導で進む打合せにお付き合い程度だった心境の坂田さんでしたが、Marry Goldのスタッフが働く姿を見て、ここで働けたらいいだろうなと思うようになります。そんな思いで何回か打合せを重ねるうちに、当時担当プランナーだった支配人との打合せが楽しくなる中で意気投合し、入社を決意することに。
当時打合せでMarry Goldを訪れる際、夏場だったこともあって、坂田さんはよく庭の草花に水をかけているおじさんを見かけていました。間もなく後に、坂田さんはなんと、その「ガーデニング担当のおじさん」の面接を受けることになりました。そのおじさんが社長の山崎茂さんだったのです。坂田さんがMarry Goldに入社されたのは、挙式から2ヵ月後のH13年1月でした。今では数店舗の経営を行う山崎社長は各地を飛び回る毎日ですが、店に立ち寄られると今も手入れの時間だけは惜しまれないそうです。

入社7年目の坂田さん。Marry Graceのオープニングスタッフとして1年を過ごした後、このレストランの支配人に昇格。以来、3年。それだけに坂田さんの夢は、このMarry Graceとともにあります。それはこのレストランを日本一のレストランにすること。「それは売上とか、グレードではなく、スタッフは勿論のこと、来てくださったお客様の笑顔にあふれたレストランであることです」と坂田さんは語られました。
この大きな目標に向かって、社是には次の三点があげられています。①喜びを力にしよう、②答えはいつもお客様から出そう、③お客様もスタッフも家族。この社是を具体的に示すようにMarry Graceでは社員ではなく家族と呼ばれます。退職は卒業。そしてスタッフ全員が営業マン。営業部ではなく「創夢部」と名づけられました。一人ひとりが歯車でなく、エンジン、動力でないとこの目標は達成できないとも語られました。
坂田さんは、Marry Graceを楽しんでいただくためには、「破格なランチタイムもお勧めですが、是非ディナーにお越しいただきたい」と語られました。私も近いうちにお邪魔させていただこうと思います。ちなみに昨年のクリスマスは12月初旬には予約で一杯になったそうです。今年のクリスマス・ディナーをMarry Graceでとお考えの方は、遅くもとも11月中でないと席の確保が難しいようです。

Marry Graceはレストランだけではなく、ハウスウェディングの県内での草分け的な存在であるMarry Goldの姉妹店でもあります。坂田さんにとっての最大のライバルは、このMarry Gold。その目標への達成度は50%だと語られました。これまでのレストランや挙式でのエピソードについてうかがいましたが、「たくさんありすぎて絞りきれません。寧ろ、思うようなサービスに至らなかったことを反省するばかりです」とホスピタリストとしての片鱗をうかがわされました。
Marry Grace;
096-370-7001
<所> 熊本市出水8・572・1
<営>11:30~14:00/18:00~OS21:00
<休>第2・4火曜
<席>テーブル48席
<駐> 90台
http://www.marrygrace.com/

そんな訳で、第10回目のゲストは、あのMarry Graceの支配人、坂田孝行(35)さんです。重厚な扉を開け、中に入ると、先日対応してくれたスタッフの男性が再び応じてくれました。二階の部屋に通してもらう間にも、見ず知らずの私にもスタッフの自然な笑顔と挨拶。きわめて自然です。そして、出されたお茶をいただく前に坂田さんが登場。
東バイパスと浜線バイパスの交差点の県庁寄りに位置するMarry GraceがMarry Gold(佐土原町)の姉妹店としてオープンしたのは、H16年の3月。オープンにあたって2名の新規採用枠に対して、応募者が100名以上という人気ぶり。採用の決め手は何だったのかうかがうと、キャリアよりも人柄だったそうです。実際、現在のスタッフは前職が金融関係、ディーラー営業、保育士さんなどということでした。
その坂田さんの入社経緯が面白いんですね。それまで置き薬の営業マンだった坂田さんは、H12年に結婚されます。そして、挙式をあげるその会場がMarry Goldでした。当初は奥様主導で進む打合せにお付き合い程度だった心境の坂田さんでしたが、Marry Goldのスタッフが働く姿を見て、ここで働けたらいいだろうなと思うようになります。そんな思いで何回か打合せを重ねるうちに、当時担当プランナーだった支配人との打合せが楽しくなる中で意気投合し、入社を決意することに。
当時打合せでMarry Goldを訪れる際、夏場だったこともあって、坂田さんはよく庭の草花に水をかけているおじさんを見かけていました。間もなく後に、坂田さんはなんと、その「ガーデニング担当のおじさん」の面接を受けることになりました。そのおじさんが社長の山崎茂さんだったのです。坂田さんがMarry Goldに入社されたのは、挙式から2ヵ月後のH13年1月でした。今では数店舗の経営を行う山崎社長は各地を飛び回る毎日ですが、店に立ち寄られると今も手入れの時間だけは惜しまれないそうです。

入社7年目の坂田さん。Marry Graceのオープニングスタッフとして1年を過ごした後、このレストランの支配人に昇格。以来、3年。それだけに坂田さんの夢は、このMarry Graceとともにあります。それはこのレストランを日本一のレストランにすること。「それは売上とか、グレードではなく、スタッフは勿論のこと、来てくださったお客様の笑顔にあふれたレストランであることです」と坂田さんは語られました。
この大きな目標に向かって、社是には次の三点があげられています。①喜びを力にしよう、②答えはいつもお客様から出そう、③お客様もスタッフも家族。この社是を具体的に示すようにMarry Graceでは社員ではなく家族と呼ばれます。退職は卒業。そしてスタッフ全員が営業マン。営業部ではなく「創夢部」と名づけられました。一人ひとりが歯車でなく、エンジン、動力でないとこの目標は達成できないとも語られました。
坂田さんは、Marry Graceを楽しんでいただくためには、「破格なランチタイムもお勧めですが、是非ディナーにお越しいただきたい」と語られました。私も近いうちにお邪魔させていただこうと思います。ちなみに昨年のクリスマスは12月初旬には予約で一杯になったそうです。今年のクリスマス・ディナーをMarry Graceでとお考えの方は、遅くもとも11月中でないと席の確保が難しいようです。

Marry Graceはレストランだけではなく、ハウスウェディングの県内での草分け的な存在であるMarry Goldの姉妹店でもあります。坂田さんにとっての最大のライバルは、このMarry Gold。その目標への達成度は50%だと語られました。これまでのレストランや挙式でのエピソードについてうかがいましたが、「たくさんありすぎて絞りきれません。寧ろ、思うようなサービスに至らなかったことを反省するばかりです」とホスピタリストとしての片鱗をうかがわされました。
Marry Grace;
<所> 熊本市出水8・572・1
<営>11:30~14:00/18:00~OS21:00
<休>第2・4火曜
<席>テーブル48席
<駐> 90台
2008年02月06日
人との新たな「間(ま)」を築きたい、建築家・長野聖二(9)

第九回目のゲストは、第四回目の黒田恵子さん、前回の渡辺真希子さんが店舗を構え、所属する「河原町文化開発研究所」の代表であり、「人間建築探検處」の代表である建築家・長野聖二さんです。長野さんは、大分県杵築市山香町生まれの36歳。熊本大学の建築学科卒業後、2001年に独立され、2004年の12月にこの河原町にオフィスを構えられました。
まず、頂いた名刺が一風変わったものでした。表裏が透けていて、どちらからも読めるようになっています。ここに長野さんのポリシーを感じた私は、この名刺について聞いてみました。すると、「表も裏もない人間関係、ヒトとモノ、コトの関係を築きたいということでしょうか」と応えてくれました。このポリシーを現すかのように長野さんのオフィスはご覧のようにガラス張りでした。

また、「人間建築探検處」という屋号も一風変わっています。「建築は機能、価値観、地域、環境等の様々な要素を複合して出来るものです。建築を通じて人間と社会、環境、コト、モノとの従来にない新しい関係を築きたいと考えています」(同社HP)という長野さんの思い。人間と建築の関係、「間」を探検(サーベイ)しながら、泥臭く考える「處」(ところ)という思いが込められています。
この町にオフィスを構えるに至ったのは、平成14年度事業としてインキュベータのモデル事業として始まった旧免許センターにあるインキュベーション施設への入居からでした。この施設での入居が半年と決まっていたことから、入居早々次の場所を検討しなければいけなかった長野さんは、当時すでに動きつつあった河原町のプロジェクトを知り、施設の仲間とこの場所を訪れ、ここの佇まいが気に入ったということです。
河原町文化開発研究所の立ち上げは、先行して進んでいた広告代理店を経営する方によるプロデュースを受ける形で行われ、代表の役回りを引き受けることになったそうです。この界隈を毎月第二土曜日に行われる「アートの日」を通じ、若き芸術家たちの街にして、彼らの芸術を楽しみにやってくる人々を増やすこと。それがこの研究所の目標の一つであり、代表の大変な役割。
今回も強引にインタヴューさせていただいた感じですが、お話をうかがって意外なご縁があることがわかりました。まず、奥様が私の出身高校の後輩にあたること、そして、私が今塾生となっている「くまもと まち育て塾」の塾長である愛知産業大学大学院教授の延藤安弘さんの熊大時代の教え子が長野さんでした。
長野さんは、コーポラティブハウス、コレクティブハウスといった集合住宅、高齢者や障害者などが介護スタッフとともに地域の中で自立的な共同生活をするグループホームといった社会的弱者のための環境づくりにも力を入れられていますが、熊本市で1992年に竣工したコーポラティブハウス・Mポートに関わられたのが延藤教授でした。
ヒトと住宅の関係は、気候、太陽、風、近隣住民、モノ、コトとの「間」が重要なファクターだと語る長野さん。そんな長野さんへのアクセスは下記。これからマイホームを考えているという方は、一度相談してみてはいかがでしょうか?

「人間建築探検處」
熊本県熊本市河原町2
TEL&FAX;096-354-1007
E-mail;fieldworks@zcmain.jp
http://fieldworks.main.jp
2008年02月05日
絵を通してアフリカの人々を支援したい、画家・渡辺真希子(8)
第八回目のゲストは、第四回目に登場いただいた黒田恵子さんにご紹介を受けた、河原町の「africa animal Jogoo」の経営者であり画家の「ado」こと渡辺真希子さん。この「africa animal Jogoo」では、アフリカにまつわるグッズとadoさんが描いた絵、カードなどを売っています。レトロな感じのショップの佇まいにピッタリの小物たちや絵画が溢れています。adoさんは、石川県のご出身でした。

そもそも石川県出身のadoさんがなぜ熊本くんだりまで来ることになったのか、最初に疑問に思って質問しました。大学進学にあたって動物に関わる勉強、仕事がしたいと考えたadoさん。畜産学部のある大学をいろいろ探して、寒いのが苦手の彼女が選んだのが、南国・「火の国」熊本の「火山」阿蘇の麓にある九州東海大学でした。adoとasoちょっと似ていますが、熊本の特に阿蘇の冬は底冷えの寒さだとは知らずに・・・。adoさんにとっては大きな誤算でした。
まずは、adoさんがこの地にお店を構えるようになったいきさつを辿っておきましょう。とにかくadoさんを語るには、アフリカと動物がキーワード。彼女がアフリカにとりつかれたのは、小学校の高学年。この頃からアフリカに行きたくて貯金を始めたそうです。動物好きでもあった彼女は中学生になると獣医に憧れます。そして、高三のとき、ケニア初の日本人獣医師・神戸俊平さんの「動物のお医者さん」という本を友人にもらったことが彼女のDNAのスイッチをオンにしたのでした。彼女は手紙で熱烈なラブコールを送るようになります。
この動物好きが高じて畜産課(現在は農学部 応用動物科学科)に入学して早々に、adoさんの元に憧れの神戸さんから返事が届くのです。そして積もり続けた思を吐き出すような「居候させてほしい」という願いが受け入れられ、2年生の春になると神戸さんがいるケニアへ旅立つのです。Adoさんにとっては初めての海外旅行。小学生から貯めてきた資金を元手のシンガポール→ドバイ経由の旅でした。この神戸さんについては、「アフリカと神戸俊平友の会ホームページ」(http://www.s-kambevet.org/)をチェックしてみてください。

adoさんが絵を描き始めたのはこのアフリカに行ってから。マサイ族の人たちに絵を描いて渡したところ彼らに大変喜ばれたことがきっかけでした。ここで二番目のDNAのスイッチがオンに。絵については特に習ったこともなく、画家に興味があったわけではないadoさんでした。しかし、お話をうかがうと、ご本人はさほど意識しておられない様子でしたがadoさんのお父様、渡辺卓氏は実は画家でした。
(http://members2.jcom.home.ne.jp/takashi-watanabe/)
(お父様のブログ; http://totomu49.mo-blog.jp/toto/)
アフリカから帰った彼女は、大学から近い温泉地の内牧(うちのまき)にあるアジア・アフリカの雑貨を扱うショップでバイトを始めます。そこでadoさんは持て余す時間に絵を描いていました。あるときその絵を店に置いてみたところその作品が売れたのです。ここで三番目のDNAがオン。「絵で生活したい」。しかし、その思いは秘めたまま、彼女は大学を卒業すると、熊本市動植物園の嘱託職員となります。

山から下りたadoさんは、熊本市でこの河原町のプロジェクトを知り、前述の黒田恵子さんから個展を開かないかと声をかけられたことをきっかけに、ここで店を構えることを決めました。当面の彼女の目標は、まずこの商店街一体で個展をやること。adoさん所蔵の作品は、絵画で50作品、adoさんが筆を入れたTシャツが100枚、トートバッグが100個。文字通り、売るほどありますね。
そして、彼女の大きな夢は、まず自分の絵を全国の人に知ってほしいという願いと、その絵を通してアフリカの人々のための支援活動を行うこと。きっと数年後には、日本とアフリカを頻繁に行き来するadoさんの姿があるでしょう。ちなみに、「ado」の由来をうかがうと、恥ずかしそうに、「高校生の頃からアフリカ、アフリカと言っていたので、友達からアドベンチャーのアドと呼ばれるようになりました」と告白されました。

adoさんへのアクセス:
「africa animal Jogoo」
場所:熊本県熊本市河原町2
営業:11時~20時 火曜定休(イベントなどで休む場合もあります)
電話&FAX 096-323-0124
HP「アド アフリカ アート」;http://www.geocities.co.jp/Milano-Aoyama/3659/
E mail;afro_ado156@yahoo.co.jp

そもそも石川県出身のadoさんがなぜ熊本くんだりまで来ることになったのか、最初に疑問に思って質問しました。大学進学にあたって動物に関わる勉強、仕事がしたいと考えたadoさん。畜産学部のある大学をいろいろ探して、寒いのが苦手の彼女が選んだのが、南国・「火の国」熊本の「火山」阿蘇の麓にある九州東海大学でした。adoとasoちょっと似ていますが、熊本の特に阿蘇の冬は底冷えの寒さだとは知らずに・・・。adoさんにとっては大きな誤算でした。
まずは、adoさんがこの地にお店を構えるようになったいきさつを辿っておきましょう。とにかくadoさんを語るには、アフリカと動物がキーワード。彼女がアフリカにとりつかれたのは、小学校の高学年。この頃からアフリカに行きたくて貯金を始めたそうです。動物好きでもあった彼女は中学生になると獣医に憧れます。そして、高三のとき、ケニア初の日本人獣医師・神戸俊平さんの「動物のお医者さん」という本を友人にもらったことが彼女のDNAのスイッチをオンにしたのでした。彼女は手紙で熱烈なラブコールを送るようになります。


adoさんが絵を描き始めたのはこのアフリカに行ってから。マサイ族の人たちに絵を描いて渡したところ彼らに大変喜ばれたことがきっかけでした。ここで二番目のDNAのスイッチがオンに。絵については特に習ったこともなく、画家に興味があったわけではないadoさんでした。しかし、お話をうかがうと、ご本人はさほど意識しておられない様子でしたがadoさんのお父様、渡辺卓氏は実は画家でした。
(http://members2.jcom.home.ne.jp/takashi-watanabe/)
(お父様のブログ; http://totomu49.mo-blog.jp/toto/)
アフリカから帰った彼女は、大学から近い温泉地の内牧(うちのまき)にあるアジア・アフリカの雑貨を扱うショップでバイトを始めます。そこでadoさんは持て余す時間に絵を描いていました。あるときその絵を店に置いてみたところその作品が売れたのです。ここで三番目のDNAがオン。「絵で生活したい」。しかし、その思いは秘めたまま、彼女は大学を卒業すると、熊本市動植物園の嘱託職員となります。

山から下りたadoさんは、熊本市でこの河原町のプロジェクトを知り、前述の黒田恵子さんから個展を開かないかと声をかけられたことをきっかけに、ここで店を構えることを決めました。当面の彼女の目標は、まずこの商店街一体で個展をやること。adoさん所蔵の作品は、絵画で50作品、adoさんが筆を入れたTシャツが100枚、トートバッグが100個。文字通り、売るほどありますね。
そして、彼女の大きな夢は、まず自分の絵を全国の人に知ってほしいという願いと、その絵を通してアフリカの人々のための支援活動を行うこと。きっと数年後には、日本とアフリカを頻繁に行き来するadoさんの姿があるでしょう。ちなみに、「ado」の由来をうかがうと、恥ずかしそうに、「高校生の頃からアフリカ、アフリカと言っていたので、友達からアドベンチャーのアドと呼ばれるようになりました」と告白されました。

adoさんへのアクセス:
「africa animal Jogoo」
場所:熊本県熊本市河原町2
営業:11時~20時 火曜定休(イベントなどで休む場合もあります)
電話&FAX 096-323-0124
HP「アド アフリカ アート」;http://www.geocities.co.jp/Milano-Aoyama/3659/
E mail;afro_ado156@yahoo.co.jp
2008年02月04日
美容室を元気にと起業した集客コンサルタント・倉崎好太郎(7)
今回のゲストは、熊本市で美容室に特化した集客コンサルティング業を起業した倉崎好太郎さん(29)です。倉崎さんにはパートナーで福岡拠点を担当する酒井慎介さんがいらっしゃいます。二人で立ち上げたのが「ありがとう」という会社。お二人は大学生当時のアルバイト先で知り合って、その後別々の道に進みますが、この事業を柱にしてまずは二人三脚の船出です。昨日は雨の中、わざわざ迎えに出向いていただいて、お話をうかがいました。

現在、美容室ではクーポン券、割り引き券、ポイントカードによる集客が常識化していますが、倉崎さんはこのような販売促進は実効力がないと判断し、全国でも実績を上げつつある携帯を使った顧客予約システムの導入を提案しています。詳しくは昨年11月にリニューアルした「ありがとう」のHPをご覧頂くとして、美容室での従来の販促方式では新規顧客の開拓にはつながらないということを私も何かの本で読んだことがありましたので、とてもいいとろころに目をつけたなと思った次第です。
倉崎さんに起業のきっかけをうかがうと、それは大学時代から芽生え始めた、「熊本にソフトバンクのような企業をつくり、地域に貢献したい」という思いでした。倉崎さんのお父様は国家公務員で幼い頃から各地を転々とする引越し生活でしたが、「この熊本に愛着があるんです」と話されました。
将来の目標をうかがうと、「壁に張ってあります」と私の背後を示されました。そこには、手書きで三枚の紙に、「2008年5月までに100本」、「2009年11月までに年商3,500万」、「2013年までに年商100億円」と力強く書かれていました。5年後に100億企業へ。んー、これは凄い。大きな目標すね。売上で考えると遠く見える数字ですが、ここは株式の店頭公開までの期間で置き換えてみてみましょう。
孫正義さんが福岡県大野城市に「日本ソフトバンク」を設立したのが1981年。ソフトバンク㈱の株式を店頭公開するのが1994年。その資金を元にM&AやIT関連企業への投資などを積極的に行う様になります。また、私がこの宣言を見て思い起こしたのが、今やTVで引っ張りだこの渡邊美樹さんでした。彼がワタミ㈱を設立したのが1984年。株式を店頭登録したのが1996年です。今を時めく経営者のお二人とも、店頭公開まではおよそ12年。
しかし、これは昔の話。今やネットの時代。カブドットコム証券㈱は、1999年(平成11年)11月19日創業から5年4カ月で東証1部直接上場を果していますし、三木谷浩史さんが楽天㈱を設立したのが1997年2月7日。株式店頭上場が、2000年4月19日ということですから、わずか3年余です。決して前例のない話ではありません。彼らに共通してあったのは、明確な目標とそのためのスケジュールでした。倉崎さんにもこの目標に向かって、一気に走ってほしいと思います。
また、倉崎さんには当面の100億円企業の達成への明確なイメージがあります。それは倉崎さんの前職企業。今では250億円企業で従業員およそ1,000名の企業での勤務経験があります。当然ながら組織の一員であることと、経営者であることには雲泥の差がありますが、この規模の会社でトップの鞄持ちから、採用・教育、宣伝、販促まで従事した実務経験は大きな財産です。
売上100億円を目指す起業家と言うと、イケイケ、強気のビジネスマンを想像されるかもしれませんが、実際の倉崎さんは温和で実に腰が低い方です。とにかく千里の道も一歩の現在、日夜地道な営業活動を続けています。美容室に特化した集客システムではありますが、同じような形態であるエステサロン・整体院・整骨院・ネイルサロンのお客様から導入したいという声も増えているそうです。
五年後の目標達成、そして、「ありがとう」ドーム、期待してます。
倉崎好太郎さん、「ありがとう」へのアクセス;
〒861-8075熊本市清水新地6-8-95
TEL;096-201-6490、FAX;096-201-7961
E-mail;kurasaki@arigato-cs.com
「ありがとう」HP;http://www.arigato-cs.com

現在、美容室ではクーポン券、割り引き券、ポイントカードによる集客が常識化していますが、倉崎さんはこのような販売促進は実効力がないと判断し、全国でも実績を上げつつある携帯を使った顧客予約システムの導入を提案しています。詳しくは昨年11月にリニューアルした「ありがとう」のHPをご覧頂くとして、美容室での従来の販促方式では新規顧客の開拓にはつながらないということを私も何かの本で読んだことがありましたので、とてもいいとろころに目をつけたなと思った次第です。
倉崎さんに起業のきっかけをうかがうと、それは大学時代から芽生え始めた、「熊本にソフトバンクのような企業をつくり、地域に貢献したい」という思いでした。倉崎さんのお父様は国家公務員で幼い頃から各地を転々とする引越し生活でしたが、「この熊本に愛着があるんです」と話されました。
将来の目標をうかがうと、「壁に張ってあります」と私の背後を示されました。そこには、手書きで三枚の紙に、「2008年5月までに100本」、「2009年11月までに年商3,500万」、「2013年までに年商100億円」と力強く書かれていました。5年後に100億企業へ。んー、これは凄い。大きな目標すね。売上で考えると遠く見える数字ですが、ここは株式の店頭公開までの期間で置き換えてみてみましょう。
孫正義さんが福岡県大野城市に「日本ソフトバンク」を設立したのが1981年。ソフトバンク㈱の株式を店頭公開するのが1994年。その資金を元にM&AやIT関連企業への投資などを積極的に行う様になります。また、私がこの宣言を見て思い起こしたのが、今やTVで引っ張りだこの渡邊美樹さんでした。彼がワタミ㈱を設立したのが1984年。株式を店頭登録したのが1996年です。今を時めく経営者のお二人とも、店頭公開まではおよそ12年。
しかし、これは昔の話。今やネットの時代。カブドットコム証券㈱は、1999年(平成11年)11月19日創業から5年4カ月で東証1部直接上場を果していますし、三木谷浩史さんが楽天㈱を設立したのが1997年2月7日。株式店頭上場が、2000年4月19日ということですから、わずか3年余です。決して前例のない話ではありません。彼らに共通してあったのは、明確な目標とそのためのスケジュールでした。倉崎さんにもこの目標に向かって、一気に走ってほしいと思います。
また、倉崎さんには当面の100億円企業の達成への明確なイメージがあります。それは倉崎さんの前職企業。今では250億円企業で従業員およそ1,000名の企業での勤務経験があります。当然ながら組織の一員であることと、経営者であることには雲泥の差がありますが、この規模の会社でトップの鞄持ちから、採用・教育、宣伝、販促まで従事した実務経験は大きな財産です。
売上100億円を目指す起業家と言うと、イケイケ、強気のビジネスマンを想像されるかもしれませんが、実際の倉崎さんは温和で実に腰が低い方です。とにかく千里の道も一歩の現在、日夜地道な営業活動を続けています。美容室に特化した集客システムではありますが、同じような形態であるエステサロン・整体院・整骨院・ネイルサロンのお客様から導入したいという声も増えているそうです。
五年後の目標達成、そして、「ありがとう」ドーム、期待してます。
倉崎好太郎さん、「ありがとう」へのアクセス;
〒861-8075熊本市清水新地6-8-95
TEL;096-201-6490、FAX;096-201-7961
E-mail;kurasaki@arigato-cs.com
「ありがとう」HP;http://www.arigato-cs.com
2008年02月03日
生活に花と緑の空間を提案するグリア代表・田上菜穂美(6)
堅く閉ざされた同じ扉を前に立ちながら思い悩んでじっと立ち竦む人と、その扉を叩き続けてこじ開けようとする人がいます。後者の人の方が、結果はどうであれ、一歩踏み出した分、得られる結果に対して次ぎの行動が取れ、また一歩前進することになります。誰にでもわかる理屈ですが、これを実行することは躊躇なく誰もができることではないのが現実ですね。

今日のゲストは、そんな扉の堅牢さに怯むことなく挑戦し続けるグリア代表・田上(たのうえ)菜穂美(なほみ)さんです。田上さんとのご縁は、第一回目の守屋尚さん、三回目の松岡雄一さんと同じく、昨年の創業塾にありました。田上さんは塾生の中でも最初から目立った存在でした。わからないことはその場で率直に質問し、とにかく前に進むんだという意欲に溢れた女性です。
彼女は今、(財)くまもとテクノ産業財団が運営するビジネス・インキュベーション「夢挑戦プラザ21」の創業準備室にオフィスを構えています。今回はそこへお邪魔してお話をうかがいました。入居棟のエントランスにはいきなり彼女のフラワーアレンジメントの作品と棟内で行われる予定の講座のチラシが置いてあり、その存在感をアピールしていました。
田上さんが目論む事業は、フラワーアレンジメントサークル及び教室の運営事業で、フラワーディスプレイ、イベントフラワーアレンジメント商品・資材の販売。田上さんがこの事業を考えるようになったのは、今から14年前の結婚式の体験から。今でこそオリジナルウェディングが注目されていますが、その当時は結婚式会場のメニューから選んでいくシステムが主流でした。そんな中でせめて花やブーケだけはオリジナルをと、衣装に合わせてそれぞれ白と赤いバラを100本ずつ使いたいと考えたことでした。
しかし、これを結婚式場に任せてしまうといくらかかるかわからない。そこで、田上さんは知り合いのバラ農家から安く仕入れ、自分で作業をすることにしました。自分の思いを来てくださった方々にこうした形で示したかったのですね。このときの花を使った演出に関する苦労が、彼女の潜在意識に刷り込まれたことになります。以後それは、結婚生活の中で静かに眠ることになります。
ところで、田上さんの夢に向かうときのこうした情熱的な行動能力は、天性のものかもしれないと思わせます。それは短大卒業時の就職に際し、頑張ったことが結果に結びつく職業ということで、デーィラーの営業職を選択したことでもわかります。しかし、その就職に最初の壁が立ちはだかります。その会社の営業職は四大卒以上が採用条件だったのです。彼女は不採用通知を前にいったん諦めますが、今度は同じ会社の事務職の募集を目にします。
当初は営業の仕事に反対だったご両親も、一流企業の事務職となれば安心と、もろ手をあげて賛成です。彼女にとっては不満足な形ではありましたが、二度目の面接ということもあり、最初のときとは違って打ち解けた雰囲気で終始。面接後の感触も上々。そして、田上さんに合格の一報が入ります。しかし、それはナント、営業職として採用したいというものでした。当初営業という仕事柄、年齢の問題で不採用になった彼女が、今度は一転して、彼女なら女性営業職として長く勤務できるという期待も加わり、特例で採用したいと言う理由となりました。入社後、彼女は並み居る男性同期営業マンを抑え、トップの成績を上げるのです。
しかしながら、女性の営業職という縛りが彼女の足を引っ張ります。本来なら会社として女性を守る制度が、彼女には差別に思えます。もっと活躍したいという気持ちにこれらの制度が足枷に感じられたのです。売りたくても売れない、そんなジレンマが彼女に転職を決意させます。あるアパレルの常連であった彼女にその販売担当者からヘッドハンティングの声がかかり、田上さんは請われるままに転進。そこで13年間勤務することになります。
そして彼女に新たな転機が訪れます。お子さんの出産とそれに伴って新たな仕事探しの必要性がでてきたのです。そんな折、フラワーアレンジメント講師の募集広告が目に留まったのです。眠っていた花への思いに火がつきました。そして、応募。しかし、不採用。お子さんが小さいことで勤務が難しいと判断されたのです。ここで再び田上さんの情熱が燃え上がります。先方に、どうしても諦めきれないと再検討依頼の手紙を出したのです。
この情熱に打たれた先方は、とりあえず研修だけの参加を認めたのです。結果的に20名の応募者の中から、最後に残ったのは田上さんを含めた5名。そして研修中に実技、学科ともトップの成績を収めます。その中で昨年の6月、最初に独立したのは彼女でした。そして、冒頭でお話した創業塾の塾生となります。
塾終了後、彼女の行動力は加速します。技術系起業を支援する(財)くまもとテクノ産業財団へ応募するのです。彼女は、花のある暮らしを提供していきたいこと、「私のように小さな子供がいても、やり甲斐のある仕事が、自分のペースでできる形態をつくっていきたい」ということを財団にプレゼン。彼女のプレゼンは見事に成功し、ここにオフィスを構えることになります。
田上さんのオフィスに行くと、ショーケースにコンパクトにアレンジされた花籠が並べられていました。それが実にみずみずしいのです。それらは「ブリザーブドフラワーです」と教えてくれました。「ブリザーブドフラワー」とは、「生花に有機物質や色素を花本来の力で吸い上げさせた花。発色がとてもよく、水やり不要で3年以上劣化しません。しっとりした感触があり、生でもなく、ドライフラワーでもなく、限りなく生の花に近い質感をもった今注目の花」だそうです。
田上さんの目下の目標は、現在稼動中の三つの教室で30名の生徒数を45名まで増やすこと。ここまでが一人でマネジメントできる範囲で、まずここを一つの到達点に。その後は講師を採用して教室を増やしていく方向だそうです。
最後に田上さんの将来の夢をお聞きしました。すると、「フラワーアレンジメントを軸にした学校を開校したい」と言う大きな構想でした。それは、「学校でありながら、花と緑の空間提案のためのエキシビションスペースです」と。花と緑が演出する場の提案、そのためのカフェ、庭園が用意され、訪れる人が容易にイメージを膨らませることの出来るそんな空間を作り出すのだと、田上さんの瞳が輝いていました。

この夢の実現のためにどのくらいの期間を考えているのかと聞いたところ、田上さんはあっさり、「私の中ではピークをこれから5年だと決めています」と。ただ現状とこの夢の間の大きなギャップの青写真はまだできていないそうです。しかし、そのためにこの施設のノウハウを借りるのだと、彼女なりの最短距離を計算した計画を立てているところが、田上さんらしいところです。勉強になりました。
田上さんへのアクセスは下記まで。
グリア;〒861-2202 熊本県上益城郡益城町田原2081-10夢挑戦プラザ21
ホームページ;http://greea.ecgo.jp
E-mail;greea087@gmail.com
田上さんブログ;http://greea.exblog.jp/
今日のゲストは、そんな扉の堅牢さに怯むことなく挑戦し続けるグリア代表・田上(たのうえ)菜穂美(なほみ)さんです。田上さんとのご縁は、第一回目の守屋尚さん、三回目の松岡雄一さんと同じく、昨年の創業塾にありました。田上さんは塾生の中でも最初から目立った存在でした。わからないことはその場で率直に質問し、とにかく前に進むんだという意欲に溢れた女性です。
彼女は今、(財)くまもとテクノ産業財団が運営するビジネス・インキュベーション「夢挑戦プラザ21」の創業準備室にオフィスを構えています。今回はそこへお邪魔してお話をうかがいました。入居棟のエントランスにはいきなり彼女のフラワーアレンジメントの作品と棟内で行われる予定の講座のチラシが置いてあり、その存在感をアピールしていました。
しかし、これを結婚式場に任せてしまうといくらかかるかわからない。そこで、田上さんは知り合いのバラ農家から安く仕入れ、自分で作業をすることにしました。自分の思いを来てくださった方々にこうした形で示したかったのですね。このときの花を使った演出に関する苦労が、彼女の潜在意識に刷り込まれたことになります。以後それは、結婚生活の中で静かに眠ることになります。
ところで、田上さんの夢に向かうときのこうした情熱的な行動能力は、天性のものかもしれないと思わせます。それは短大卒業時の就職に際し、頑張ったことが結果に結びつく職業ということで、デーィラーの営業職を選択したことでもわかります。しかし、その就職に最初の壁が立ちはだかります。その会社の営業職は四大卒以上が採用条件だったのです。彼女は不採用通知を前にいったん諦めますが、今度は同じ会社の事務職の募集を目にします。
当初は営業の仕事に反対だったご両親も、一流企業の事務職となれば安心と、もろ手をあげて賛成です。彼女にとっては不満足な形ではありましたが、二度目の面接ということもあり、最初のときとは違って打ち解けた雰囲気で終始。面接後の感触も上々。そして、田上さんに合格の一報が入ります。しかし、それはナント、営業職として採用したいというものでした。当初営業という仕事柄、年齢の問題で不採用になった彼女が、今度は一転して、彼女なら女性営業職として長く勤務できるという期待も加わり、特例で採用したいと言う理由となりました。入社後、彼女は並み居る男性同期営業マンを抑え、トップの成績を上げるのです。
しかしながら、女性の営業職という縛りが彼女の足を引っ張ります。本来なら会社として女性を守る制度が、彼女には差別に思えます。もっと活躍したいという気持ちにこれらの制度が足枷に感じられたのです。売りたくても売れない、そんなジレンマが彼女に転職を決意させます。あるアパレルの常連であった彼女にその販売担当者からヘッドハンティングの声がかかり、田上さんは請われるままに転進。そこで13年間勤務することになります。
そして彼女に新たな転機が訪れます。お子さんの出産とそれに伴って新たな仕事探しの必要性がでてきたのです。そんな折、フラワーアレンジメント講師の募集広告が目に留まったのです。眠っていた花への思いに火がつきました。そして、応募。しかし、不採用。お子さんが小さいことで勤務が難しいと判断されたのです。ここで再び田上さんの情熱が燃え上がります。先方に、どうしても諦めきれないと再検討依頼の手紙を出したのです。
この情熱に打たれた先方は、とりあえず研修だけの参加を認めたのです。結果的に20名の応募者の中から、最後に残ったのは田上さんを含めた5名。そして研修中に実技、学科ともトップの成績を収めます。その中で昨年の6月、最初に独立したのは彼女でした。そして、冒頭でお話した創業塾の塾生となります。
塾終了後、彼女の行動力は加速します。技術系起業を支援する(財)くまもとテクノ産業財団へ応募するのです。彼女は、花のある暮らしを提供していきたいこと、「私のように小さな子供がいても、やり甲斐のある仕事が、自分のペースでできる形態をつくっていきたい」ということを財団にプレゼン。彼女のプレゼンは見事に成功し、ここにオフィスを構えることになります。
田上さんの目下の目標は、現在稼動中の三つの教室で30名の生徒数を45名まで増やすこと。ここまでが一人でマネジメントできる範囲で、まずここを一つの到達点に。その後は講師を採用して教室を増やしていく方向だそうです。
最後に田上さんの将来の夢をお聞きしました。すると、「フラワーアレンジメントを軸にした学校を開校したい」と言う大きな構想でした。それは、「学校でありながら、花と緑の空間提案のためのエキシビションスペースです」と。花と緑が演出する場の提案、そのためのカフェ、庭園が用意され、訪れる人が容易にイメージを膨らませることの出来るそんな空間を作り出すのだと、田上さんの瞳が輝いていました。
この夢の実現のためにどのくらいの期間を考えているのかと聞いたところ、田上さんはあっさり、「私の中ではピークをこれから5年だと決めています」と。ただ現状とこの夢の間の大きなギャップの青写真はまだできていないそうです。しかし、そのためにこの施設のノウハウを借りるのだと、彼女なりの最短距離を計算した計画を立てているところが、田上さんらしいところです。勉強になりました。
田上さんへのアクセスは下記まで。
グリア;〒861-2202 熊本県上益城郡益城町田原2081-10夢挑戦プラザ21
ホームページ;http://greea.ecgo.jp
E-mail;greea087@gmail.com
田上さんブログ;http://greea.exblog.jp/
2008年02月02日
映画で心揺さぶろうと語る熊本クレア総支配人・吉田克己(5)

先日、めったに映画館に行かない私が、熊本・嘉島町AEONモールの熊本クレアで公開されていた「ベオウルフ/呪われし勇者」を観てきました。映画を観る前にふと、このシネコンの支配人とはどんな方なのだろうと思い立ち、チケットを購入した後でカウンターのスタッフの方に支配人にお会いしたいと申し出たところ、お忙しい中快く応じてくださいました。いきなり、インタヴューのお願いをしたところ、金曜日なら時間が取れるということで、先月25日に再訪しました。
そんな訳で、第五回目のゲストは㈱ワーナー・マイカル、ワーナー・マイカル・シネマズ熊本クレア「総支配人」の吉田克己さんです。ご挨拶すると、「映画のことならどんなことでもお話できますが、私のことは勘弁してください」と第一声。しかし、そうはいかないのがこのインタヴューシリーズです。とは言え、無理を言っているのはこちらですから、まずこの映画のことを前振りにしますね。

「出演者」というと少し変ですが、主役のレイ・ウィンストンこそちょっと格好良すぎますが、アンソニー・ホプキンス、ジョン・マルコヴィッチ、ロビン・ライト・ペンは実物そっくりに描かれています。それで口元の動きとセリフがぴったりと合っている。おそらく実写をデジタル3Dにしたのだろうと思いますが、この境目が途中でわからなくなる程の完成度でした。

この3D専用メガネは、通常のメガネの上からも装着が可能で、上映後持ち帰ることができます。今週末にでも是非見てほしい映画です。この映画が九州で観られるのは、福岡ルクルと熊本クレアのたった2箇所しかありません。全国でも20箇所だそうです。少なくとも映画好きの県内の方ならここまで来て見る価値は充分にあると思いますよ。

映画の宣伝(?)、吉田総支配人、これくらいで宜しいでしょうか?いやいや、ほんとに凄いんです、この3D映画。
さて、吉田さん。ご出身は佐賀県。1996年に九州で最初に出来た佐賀県WMC上峰開業に伴い入社。以来、当時全国で8サイト(劇場)だった箱が56サイトに急増。2005年10月10日の熊本クレア・オープンとともに熊本へ赴任されました。「総支配人」という立場としてのご苦労などをお聞きしたのですが、「いやいや、入社したタイミングが成長期だっただけで、人が追いつかなかっただけです」といたって謙虚です。
目下の課題は、土日以外の集客、特に夜の集客とか。そのために、ファーストデイ、レディスデイ、レイトショーなどのサービス料金を設定されています。「お客様には、このサービス枠を利用してもらい、より多くの映画を観ていただきたいんです」と熱く語られました。「映画によって心を揺さぶり、映画館でしか味わえない映画の世界、音響の素晴しさを味わってほしい」とも。
ご自分のことには謙虚な吉田さんも、この仕事にかける思いは隠せません。何ぶん現場オペレーションの裁量余地が少ない領域ではありますが、これからは特に「これまで映画どころではなかったはずの団塊の世代の方々に映画館にお越しいただきたい」とおっしゃいます。「そのための垣根を少しでもはずしていければ」と語られました。
また、8スクリーンある熊本クレアですが、自主上映、演劇、音楽などでも貸し出すことができるそうです。全体のスケジュールの問題もありますが応相談で可能ということでした。特にこの映画館のゆったりとした座席と音響は優れものです。パフォーマーにとっては、快適な環境で自分たちのパフォーマンスを見てもらえる絶好の箱だと思います。
最後に、このワーナー・マイカルに入社される前の吉田さんのことをお聞きしました。5年間某コピーメーカーのサービス・エンジニアを経て、10年程ご自分で小さな駄菓子屋系のお店を経営されていたそうです。商売は順調だった様でニ店舗目を検討中のところを、近隣に大手企業の出店が決まったことで閉店を決断されます。そして、現在は逆の立場と言うのですから、人生は皮肉なものですね。吉田さんには社内結婚で結ばれた同郷の奥様と3人のお子さんがいらっしゃいます。
吉田総支配人とお話して感じたことですが、話しぶりにその温厚な人柄が表れる方です。それは佐賀県民の特徴なのでしょうか?個人的にお願いしたのですが、この熊本におられる間に、どんな形であれ、熊本の映画文化の一躍を担っていただきたければと思います。映画人にはシネコン批判もありますが、吉田さんのお話からそれは、役割分担ということを忘れた議論だと、気づかされました。
皆さん、映画館に行きましょう。そして、映画に心を揺さぶられ、大いに泣き、大いに笑いましょう。
2008年02月01日
熊本の表現者を育てたい、ギャラリー経営者・黒田恵子(004)

ニューヨーク市のマンハッタン島南部(ダウンタウン)にソーホー(SoHo)と呼ばれる地域があることはよく知られています。今ソーホーと言えば、Small Office/Home Office(スモールオフィス・ホームオフィス)の略語「SOHO」の方を想起する人が多いかもしれませんが、「パソコンなどの情報通信機器を利用して、小さなオフィスや自宅などでビジネスを行っている事業者」といった意味で使われることでいけば、このニューヨークの地域に語源が辿れますね。
このソーホーは、芸術家やデザイナーが多く住む芸術家の町として1960年代から1970年代に掛けて知られるようになりました。この町についてウィキペディアでは次のように解説しています。

「さらに彼らの集うレストランやギャラリー、ライブハウスができ、多くの歴史に残る個展や朗読会などが開かれていた。1980年代以降、高感度な地区としてヤッピーたちや観光客が集まるようになり、のどかな雰囲気は急速に失われていく。ギャラリー街は主にチェルシー地区へ、芸術家やデザイナーらはその他ロウワー・イースト・サイド地区・トライベッカ地区・ノーホー地区・ノリータ地区・ハーレム地区へ移り、さらにそれらの地区も高級化してしまい現在はマンハッタンも出てブルックリンにまで移りつつある。近年は高感度な高級ブティック・レストラン街となっている」。
「ソーホーの語源は、ハウストン通り(Houston Street:ヒューストンとは発音しない)の南側に位置する地区(South of Houston Street)、という意味である。(より早くから繁華街として有名だったロンドンのソーホーを意識してもいる)。

「昔ながらの問屋さんたちとコミュニケーションを深めながら少しずつみんなの足並みをそろえて、もっともっと活気あるエリアにしていけたら」と語るのが「河原町文化開発研究所」副代表でのある黒田恵子さんです。私が今関わっている「まち育て塾」で、この河原町の活動を知り、今日突然お邪魔してお話をうかがいました。
黒田さんは、高校卒業後、モデルとして東京へ。その後テレビでタレント活動をされるなどして12年後に熊本に戻って、4年前にこのプロジェクトに出会い、この土地で「GALLERY ADO(ギャラリー・アドゥ)」を開業されました。屋号の由来をお尋ねしたところ、黒田さんがお好きなミュージシャンのシャーデーのヴォーカルの名前「アドュ」から取ったということでした。
後で「アドゥ」は、正しくは「Adu」だったことに気づかれますが、「ado」にも「から騒ぎ、騒動」の意味があることを発見され、この町に人を集め、騒がしい町にしたいという黒田さんの願いも表していることからそのままこの屋号に決めたということでした。
なぜギャラリーだったのか?うかがうと、もともと絵画鑑賞がお好きで、あるとき長野に旅行された際に立ち寄った画廊で、横浜の画廊主と知り合いになり、その画廊で働く事になったことで、熊本に帰ったらギャラリーをやろうと思われたそうです。ちなみに、その画廊主の奥様がフラワーコーディネーターだったことから、黒田さんもその道の修行も積まれています。
「GALLERY ADOギャラリー・アドゥ」は、一階がカフェで、二階がギャラリーになっています。この建物がまさに本家ソーホー顔負けのレトロ感覚溢れる空間です。聞けば、昭和33年頃に建てられたものとか。なんと私の生まれた年です。映画、「ALWAYS」の世界です。ギャラリーには熊本で画業に励む若者たちの作品が早く陽の当たるのを待つかのように展示してありました。
熊本の若い表現者に協力したいという黒田さんの店には、私がインタビューをしている間にもいろいろな若き表現者たちが入れ替わり立ち代り現れていました。自主映画をプロデュースする林さん、この町で同じくショップも経営する画家の渡辺さん、天草にある「海のピラミッド」の再生活動に燃える田中さんと村上さんと、あっという間に「一見」の客である私もお知り合いにさせてもらいました。

黒田さんの表現者たちへの思いは、彼らの横のつながりばかりではく、縦のつながりの必要性へとつながり、なんと日本を代表するアーティスト・日比野克彦さんに伝わります。それは、「河原町文化開発研究所」が月一回発行するミニコミ誌で、日比野さんへの単独インタビューに結実しています。「思考は現実化する」の好例ですね。
開業から4年たった黒田さんの現状の思いは、KAB熊本朝日放送が運営するウェブTV「まち×ひと」(http://www.machihito.tv/)の映像で知ることができます。そして、彼女の描く夢の先には、自分の手で表現者たちをプロデュースする舞台が待っています。「そのためにもまずここを成功させたい」と熱く語った黒田さんからオーラのようなパワーを感じました。
「GALLERY ADO」;熊本市河原町2
TEL;096-352-1930(OPEN;11:00~20:00)
http://www.just.st/303750